時間外労働になるなら個人的にお金を払う、と言われた
そう、十歳も年下の青年に
しかも雇用主は僕なのに
「あのなあ、そんな事を言うなら今からでも帰るけど?」
このマンションを訪れたのは初対面の夜以来二度目
ひとり暮らしには広過ぎる、贅沢なキッチンには最低限の調理道具があったから胸を撫で下ろした
「はあ?何でだよ
少しでもあんたの負担にならないようにって気を遣ったのに」
「……」
もしも相手がチョンユノでなければ、そもそもこうして通常の業務を終えてから食事管理だとか食事指導として部屋まで行かない
髪の毛をきちんとセットしていないとそうは見られない事ばかり、だけどこれでも僕は社長で暇ではない
そもそも特定のモデルを贔屓するのも良くない
そう、良くないとは分かっている
けれども放っておけないし、どこか感覚がずれている魅力的で不思議な青年の喜ぶ顔を見たいと思ってしまう
「チョン君、君は本当に僕を気遣い心配してお金を払うって言ってくれたんだよね?」
「当たり前、それ以外にない」
「…分かった、なら良いよ
でも、僕以外にはそういう事を言わない方が良い
特に年上相手には
生意気だと思われても仕方無いし、場合によっては良い印象にならないと思うから」
生意気に見えてもしっかり社会常識のある青年
とは言え帰国子女、この国の普通とは馴染みにくい場面もあるだろう
例え口煩いと思われても伝える事は大切
「チャンミン、あんた以外には言わない
それに、他の誰かにどう思われてもどうだって良い」
「他、って…僕以外の他の誰か?」
「そう言ってる」
生意気だし、何故か物凄く懐かれている
薄々分かってきたのだけど、チョンユノは何か言い辛い事がある時、もしくは照れ隠しで『あんた』と僕を呼ぶようだ
僕以外の第三者の前ではそう呼ばれないからそれで良いか、なんて思ってしまうのは甘いのだろうか
「少なくとも僕は、今後モデルとして活動する君が皆から良く思われて欲しいけどなあ」
「あんたがそう言うならもっと気を付ける
でも、俺はあんたももっと評価されるべきだと思う」
「僕?…はは、ありがとう」
僕の事務所が小さいから気を遣われたのかもしれない
今後の事務所はチョンユノに掛かっている、なんて言ったら負担になるだろうから笑顔で頷いた
「キッチンの使い方も分かったから、後は僕に任せて
簡単な物しか出来ないけど」
帰り道に調達した食材を広げて腰に手を当てた
僕だって大したものは作れない、だけど、この青年は炭水化物だとか甘い物ばかり食べているらしいから少しはましだろう
「お礼にお金を渡さない方が良いならそうするよ」
「渡さない方が良いって言うか…
それくらい気にするなよって感じかな
毎日チョン君の為に食事管理する訳じゃないし、今回くらい良いよ」
気を遣うな、と暗に伝えたら、青年は少し唇を尖らせて頷いた
「ありがとう、チャンミニヒョン」
ほら、こうして話が出来たら『あんた』とは呼ばなくなる
チョンユノは分かり難いようで分かり易い
相手が僕でなく女性なら、こんなに魅力的な青年に振り回されて大変だろうな、なんて思う
「本当はここで料理するチャンミニヒョンを見ていたいんだけど、仕事があるから部屋に行っても良い?」
「僕の料理なんて見てなくて良いから、行っておいで
部屋はどっち?出来たら呼ぶよ」
チョンユノが部屋を指差した
先日数時間を過ごした寝室ではない、別の部屋
少しどきりとしたけど顔には出さずに頷いて「また後で」と手を振った
自炊は割とする方
今となっては昔、のモデル時代は減量や身体作りの為に細かく計算して食事を作っていた
売れないし芽が出ないから途中からは躍起になったり追い込まれて、プロテインやサプリに頼り切っていたのは、思い出すと懐かしさよりも苦しみが勝つ
今は以前程体型に気を遣う必要が無いから気楽だ
フライパンひとつで完成するパスタだとか…いや、実際は更に簡単なラーメンも定番メニューのひとつ
「こんなに考えて、しかも誰かの為に作るなんて久しぶりだな」
チョンユノの身体を作る、と思うと気合いが入って、野菜も色鮮やかなものを選んだ
僕が作る質素な料理と釣り合わないくらいの食材達を見て、僕自身が意外にも楽しんでいるのだと気付いた
まるで映画やドラマに出てくるような、雑誌の撮影現場のような広くて使い勝手の良いキッチンで料理をしていると、もしこの場所でモデルチョンユノが撮影するなら?なんて想像をしてしまう
浮世離れしたようなスタイルと容姿を持つチョンユノには雑誌のモデルではなくショーモデルの方が合っている
だけど、こんなキッチンならテーマを決めた撮影も出来そうだ
「ひとりじゃあ勿体無いから誰か女性モデルと…」
どんな相手がぴったりくるだろう、と今人気の女性モデル達を思い浮かべてみた
高身長でクールなモデルだとか、彼と同じ漆黒のロングヘアのモデルが良いかもしれない
きっとハマる、そう思うのに、何だか少し面白くない
「……何でだ?」
胸が少しむかむかして、気分が悪い
食あたりや胃もたれのそれとは違う
この想像は止めて料理に集中しよう、と思ったのに、まだ消えない
このキッチンで、モデルのチョンユノが相手役のモデルの腰を抱いて不遜な笑みを浮かべて…
「……っ…何考えてるんだよ…」
脳裏に浮かんだ光景で、チョンユノの相手役が僕になっていた
成功出来なかった職業、モデルへの未練なのか、それとも彼と同じ舞台に立ちたいとでも思っているのか…
いや、未練はあっても十歳も年下の青年と一緒に撮影だなんて無理だ
チョンユノと僕はあまりに違う
彼は僕がなりたかった姿、僕がどれだけ努力しても得られないスタイルとオーラを持っている
完敗なのに、初めから悔しさは少ない
「……どうして…」
敵わないし、あまりに理想だからモデルとしての嫉妬心なんて少ない
同じ舞台に立とうだなんて思わない
不思議なのは、有り得ない想像をしてしまった結果、ついさっきまであった気分の悪さが引いた事
これじゃあまるで、彼の隣に立つ女性モデルに嫉妬したみたいだ
「しかも想像で…馬鹿らしい」
あまりに理想のモデルで浮き足立っているからおかしくなっているだけ
それとも、何度も僕を『抱く』だなんて言うからだろうか
あの夜の体験は思い出すと気まずさが大きいから考えないようにしているけど、触れられたり『次こそは…』と言われる度に過ぎる
きっと、不器用で少しずれているチョンユノなりのコミュニケーションなのだろう
本気で捉える必要はない
邪念に邪魔されつつも、数品の料理が完成した
声を掛ける前に調理道具を片付けてから食器棚を開けた
皿は最低限しかないけど、どれを使って良いのか分からないから本人に聞こうと思いキッチンを出ようとしたら、何かを蹴ってしまった
「うわっ、え、何?」
小さな音を立てたそれを探したら、直ぐに見付かった
スマートフォンだけど、僕のものはスラックスのポケットに入っている
という事はこの部屋の持ち主のもの
部屋に向かう時に落としたのだろうか
「仕事…チョン君ならパソコンを使いそうだし、落としても気付かなかったのかも」
意外と抜けている、それも彼らしい
そんな事を考えながら拾ったら指が触れて、真っ黒なディスプレイがぱっと明るくなった
ロック画面だから個人的な情報やプライバシーは問題無い
だけど、そんな事どうでも良かった
「……え...どうして…」
ロック画面には、ひとりの青年がランウェイを歩く姿が写し出されていた
その写真を僕は数年ぶりに見た
もう二度と見たくない、と思っていた仕事の写真だ
伝統ある海外ブランドのショー
憧れだったブランドのひとつでもあった
オーディションで選ばれてモデルとして参加した
上手くいった、当時の僕なりに全力を尽くしたと思った
だけど、世界では全く通用しなかったしその仕事が次に繋がる事も無く、それ以来海外有名メゾンのショーとは無縁になってしまった
「…気持ち悪……」
まだ、希望を持っていた頃の自分の姿はとても滑稽だ
情けなくて恥ずかしくて嫌気が差す
スマートフォンをかなぐり捨ててしまいたい程、だけどこれは僕のものじゃあない
「どうして、チョン君が……」
血の気が引いた
元モデルだと伏せていたのに、調べられたのだろうか
調べた結果、無名モデルだったと分かって呆れただろうか
その場にへたり込むようにしゃがみ込んだら、足音が聞こえて扉が開いた
「チャンミ二ヒョン、俺の方も落ち着いたから手伝ってやっても……チャンミン?!どうしたんだよ!」
「え……あ…」
ごめん、何でもない
そう言おうとしたけどしどろもどろになるだけで何も言えなかった
慌てて駆け寄ってきた青年は、僕が言うよりも早くスマートフォンの存在に気付いた
「あれ、俺の…置き忘れてたのか」
「はは、やっぱり忘れていたのか…」
勝手に見てしまってごめん、と言う余裕も無かった
頭が真っ白になった
もしも僕が社長でなければ、責任なんて何もない若者のままだったなら、このまま飛び出して逃げてしまいたいくらい恥ずかしくて情けない
「落ちていたから拾ったんだ」
「そっか、ありがとう
それよりチャンミン、体調悪いのか?」
背中に大きな手が添えられた
本当に心配している様子だ
裏表の無さそうな青年が悪い事を考えるだなんて思えない
だけど、穿った考えを持ってしまうくらい、僕の過去は情けなく恥ずかしい、折れたプライドも戻らないまま
「見るつもりじゃなかったけど、拾ったらロック画面が見えたんだ」
「…え…」
「どうして僕の...あんな写真にしてるんだ?
馬鹿にしてるのか?」
例え少しずれているところがあったって、僕の過去には触れないでいて欲しかった
モデル同士じゃないから冷静で居られるだけ
過去の職業だから冷静で居られるだけ
モデル同士、同じ土俵に立ったら彼と僕はあまりに違っていてみじめになるだけなのだから
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