負け犬の遠吠えだと言われても、これが現実
僕には向いていなかった
自分の身体ひとつで表現する事が
「シム社長、そろそろお時間です」
「……ノックしてから入って来るようにと何度も…」
「何度もノックして声を掛けました
返事が無かったのでやむを得ず…」
「分かった、準備するから出てくれ」
優秀な男性秘書は一礼して部屋を出た
社長、なんて名ばかりの小さなモデル事務所
常にするべき事や責任に追われて余裕なんて持てない
お陰で秘書の声掛けにもノックにも気付かなかったこの有様
「僕に、この事務所を大きくする事なんて出来るのかな…
駄目だ、何言ってるんだよ」
ふう、と大きく息を吐いて立ち上がった
鏡の前で髪の毛を整える
社長らしく、少しでも威厳と貫禄が感じられるように額を出している
スーツに皺が無いか、もチェックする
僕はもう、昔のような売れないモデルじゃない
大切なモデル達を売り込み、守る立場なのだ
今日の大切な仕事はとある企業主催のパーティーだ
華やかに見えるのは表向き、実際は多くの人々の欲望や野暮が渦巻いている大人の社交場
この企業は特に若者からの支持が大きく、協賛を望む企業も多い事で知られている
招待された僕の目的は、自社のモデルを広告起用してもらうように売り込む事
その為、今売り出し中のモデル数人と共にやって来た
彼らは昔の僕とは比べ物にならないくらいオーラがある
野心もあるし、絶対に成功させたい
僕は絶対に彼らの味方でいる
これが今の僕の仕事だと思っている
だけど…
心の奥底にいつもあるのは
『僕にも、理解してくれる大人が居たならば』
という気持ち
悩んだ時、追い詰められた時、自分を否定された時、突き放さずにいてくれたら、今でもモデルの端くれで居られただろうか
「…っ……」
過去を思い出して喉の奥がぐっと詰まったような苦しさに襲われた
大切な仕事の場で考える事ではないから気持ちを切り替えて顔を上げたその時、視線が釘付けになった
「……」
「シム社長?どうされましたか?」
「…あの青年は?」
僕よりも身長の高い秘書に目配せして、耳打ちするように尋ねた
「ああ…彼はここの社長の親戚です」
「親戚?何処の芸能事務所の所属だ?」
黒のレザージャケット、ワイドシルエットの黒いスラックス、そして黒いインナー
身体の線を隠すゆったりとした服装、薄暗い照明では目立たない色、髪色も瞳の色までも漆黒
それなのに、まるで彼の周りだけ空気が違っているように際立っている
「社長、彼は芸能の道には進まない、と決めているそうです」
「どうして知っているんだ?」
「噂程度ですが…
私も気になって、先程詳しく確認しました
沢山のスカウトがあったのでしょうね」
聞くと、彼はあまり公の場には出ないらしい
それでも時たま、まるで気まぐれのようにこうして親戚が社長を務める会社の催しに顔を出しているそうだ
身長、スタイル、顔、自信に満ち溢れたような、世俗には興味なんて無いのだと言うような雰囲気は全てを圧倒すると言っても過言ではない
「…彼と話がしたい」
「社長、ですから彼はモデルにも興味が無いと…
それに、執拗くスカウトするとこの会社との取引にまで影響が出るかもしれません」
「その時は僕が責任を取る
それに、取引相手は他にも沢山居る
そうだろ?」
部屋の隅で何にも興味の無いような顔をしてグラスを傾ける青年から目が離せない
十年前、二十歳だった頃の全盛期の自分と比べたら情けなくて泣きたくなるくらいの『本物』
同じ年頃だったら敗北感でいっぱいだったかもしれない、いや、あまりに違い過ぎてライバル心すら芽生えないかもしれない
「ここは少し任せた
何かあれば連絡するよ」
「シム社長…!」
走り出したいのを我慢して、足早に青年の元へと向かった
才能あるモデル達を抱えてこんな事を思うのは良くないかもしれない、だけどここまで心躍るのは久しぶりだった
「君…っあ…!」
待ちきれず、後数メートルのところで声を掛けた
一瞬、彼がこちらを見て目が合った
けれども直ぐに背を向けて、扉の向こうへとするりと消えていく
「待ってくれ…!」
慌てて駆けてしまった
目立ってしまうかも、と思ったけど、弱小モデル事務所の社長なんて誰も気にしていないだろうと思ったらどうでも良くなった
何より、今は彼と話をしたい
「……あれ…居ない、何処だ?」
扉を開けたら廊下に出た
つい今さっき、彼は確かにこの扉の向こう側に消えた
なのに、廊下には誰も居らずしんと静まり返っている
「名前……」
呼ぼうとしても、彼の名前すら知らない
きょろきょろと見渡して、どうしようか考えた
戻って秘書に相談しようか
いや、だけど自ら動くと豪語した手前それは出来ない
少し歩いて、その場で立ち止まっていたら、突然右腕を引かれた
「…っ…!」
「しっ、黙って」
思わず声を上げそうになる僕の口からは何も発せられる事が無かった
唇は大きな手で塞がれてしまったから
目の前に、吸い込まれそうに黒い瞳があったから
気配もなく現れた男は、僕が探していたあの青年だった
腕を引かれて足が縺れそうになったけど、抱き留められて転けずに済んだ
「此処じゃあ雰囲気も出ないなあ、ごめんね」
バタン、と背後で扉が閉まった
まるで倉庫のような小部屋の中、ふたりきり
話をするにはむしろ都合が良い
「雰囲気なんてどうでも良い
僕はシム、シムチャンミン
君を探していたんだ」
「へえ、俺を?
俺の事を知っているの?」
以前の僕は売れないモデルだった
少しの間ではあるけれど、モデルとして活動していた
引退した今もこの業界に居る
有名なモデルや世界で活躍するモデルを数多く見てきた
慣れている、なのにこの男はやはり圧倒的だった
「…ついさっき、パーティーの会場で初めて見かけました
君が業界には入らない、と話しているのも秘書から聞きました
それでも、どうしても君が欲しい
僕の事務所でモデルとして活動して欲しい」
彼が年齢は分からない
三十になった僕より随分下だという事しか分からない
普段ならば年下から敬語を使われなかったら気になるけど、彼のオーラに圧倒されてそんな事気にならなかった
「名前も何も知らない、俺が業界に興味無い事は知ってる
…それでもこんなに不躾にお願いするんだ?」
「…申し訳ございません
ですが、一目見ただけで君しか居ない、と思ったんです
お願いです、僕にチャンスをもらえませんか?」
性格には難アリ、なのかもしれない
だけどそれも含めてスター性、カリスマ
何にせよ、彼をものに出来る可能性があるなら何だってしたい
そのくらい魅力的だった
「シムチャンミン、ね
綺麗な社長自ら必死のスカウト、なんて断るのも気が引けるなあ」
「え……うわっ、何を…!」
突然、大きな手が僕の頭をわしゃわしゃと掻き乱した
クリアだった視界に前髪の影が出来た
「澄ましているのもそそるけど、この方が良いよ」
「は?」
「俺はチョンユノ、十九歳
本当なら、名前も知らないのにスカウトなんて…って言いたいところだけど、あんたなら良いよ」
「それって…!」
僕のスカウトを受けてくれる、という事だろうか
時間を掛けてセットした前髪はぐしゃぐしゃにされてしまったけど、この男…チョンユノを手に入れられるなら些末な事
「チョン君は大学生?学生なら勉強と両立出来るようにレッスンやスケジュールを組むよ
専属でマネージャーを付けるから、不安な事があれば何でも相談して…」
「待って、シム社長」
ふっと笑った青年に、心臓が鷲掴みにされた
天性の才能、という言葉は彼の為にあるのかもしれない
そう言えば、僕は社長だとは言っていないのに何故分かったのだろう
「まだ、ちゃんと返事してないよ」
「さっき、『あんたなら良い』って…」
「うん、言ったよ
だから、あんた次第だって事」
「僕次第…ですか?」
少し悪そうな顔で唇の端を持ち上げる
それだけでドラマや映画のワンシーンのようだ
「シム社長が今夜これから、俺の部屋で付き合ってくれるならね」
「君の部屋?付き合う?」
「そう
ちゃんと話さないと分からない事もある
それに…俺はあんたの事が知りたい
ひとりで着いて来てくれるなら考える」
今夜の予定はこのパーティーで終わりだ
だけど…
「秘書に連絡しないと…」
「そのひとは俺達の邪魔はしない?」
「今僕は仕事なんだ
抜けるなら連絡をしなければならない」
「抜けるって決めてくれたなら良いよ」
完成された雰囲気だったから十九歳だと聞いて驚いた
だけど、にっと笑うその表情は年相応のもので、どちらの表情も魅力的だと思った
「どうしても君が欲しいから迷う必要なんて無いよ」
「話が早くて良かった」
片腕で抱き寄せられて、こめかみにキスされた
この国ではなかなかない挨拶だったから驚いたけど
「ごめん、帰国して浅いから癖で」
と言われて腑に落ちた
モデルとしては成功出来なかった
だけど、僕の夢を代わりに叶えてくれる存在を見付けた
今夜、彼を説き伏せて…
絶対にこの男をモノにして見せる
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読んでくださってありがとうございます
長い間眠らせていた「書きたいリスト」からの短編です
こちらも最後までお付き合いいただけたら幸いです
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