「現代人の日本語の乱れ」として言われてきた「ら抜き言葉」。「見れる」(見られる)、「食べれる」(食べられる)などがその典型的なものとして挙げられます。

 

しかし、これに疑問を持った人がいるようです。それは、二松学舎大学の島田泰子教授。ことばの歴史的な変遷を研究する「日本語史」という分野を専門にしています。彼女の授業で「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」ではなかった!という話が話題になっています。

 

では「ら抜き言葉」で抜けているものは何だったのか。

それは「ar」だといいます。「見られる→見れる」「食べられる→食べれる」の変化をローマ字で書いてみると 「mirareru→mireru」「taberareru→tabereru」。この「ar」抜きという捉え方は、島田教授が発見したものではなく、研究者の間では共通認識なのだそうです。世間の人にとっては新鮮に見られるのかもしれません。

 

しかし、島田教授が本当に講義で伝えたかったことは、「言語の時代差と世代差」だったそうです。

「行かれる→行ける」の変化が出だしたのは、室町時代ごろ。対して「見られる→見れる」のいわゆる「ら抜き言葉」が登場しだしたのは、大正・昭和時代からだといいます。

 

 「行かれる→行ける」のように、長い時間をかけて生じた言葉の「時代差」については、私たちも「言葉は移り変わるもの」と許容しがちですが、「見られる→見れる」という、祖父母世代と孫世代が共存する中でリアルタイムに起こる「世代差」については、「正しい日本語ではない」「日本語が乱れている」として許容したがらない傾向があります。

 

「『ar』抜き現象は室町時代ごろからの長い流れ。その一部である『ら抜き言葉』だけがクローズアップされ、言葉の乱れとして睨まれがちです。ですが、長い目で見れば、昔から起こっている変化なのです」と話します。彼女は「新しい世代の新しい言葉づかいに対して、『正しい』『正しくない』だけではなく、『言葉が変化している』というまなざしも持ってほしい」と期待しているといいます。

 

歴史を知ると理解が深まって、考えることがたのシカ!

 

参考URL:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171124-00000004-withnews-sci&p=1