2024年度春季号 その7
6月1日の「ホメーロス研究会」の様子です。今回は『イーリアス』第二歌147行目から171行目までです。
アガメムノーンはゼウスからの夢で「すぐさま武装させよ θωρῆξαί πανσυδίῃ(65,6)」と告げられたのですが、一計を案じ軍勢を「試そう πειρήσομαι(73)」として皆の前で退却に向けた演説をしました。そしてその演説はこう締めくくられていました。
φεύγωμεν σὺν νηυσὶ φίλην ἐς πατρίδα γαῖαν:
οὐ γὰρ ἔτι Τροίην αἱρήσομεν εὐρυάγυιαν. (2-140~1)
愛する故郷に船と共に逃げよう
もう道広きトロイアを攻略することは叶わないのだから
すなわち、お告げの内容と全く逆のことを呼びかけたのでした。
遠征は既に「ゼウス大神の九年の歳月を閲し ἐννέα δὴ βεβάασι Διὸς μεγάλου ἐνιαυτοί(134)」、それに倦んだ兵士達は帰郷の念にとらわれ大混乱に陥ります。「東風や南風が吹き起こす波、あるいは西風に靡く一面の麦の穂先の如くに」と比喩があって以下に続きます。
ὣς τῶν πᾶσ᾽ ἀγορὴ κινήθη: τοὶ δ᾽ ἀλαλητῷ
νῆας ἔπ᾽ ἐσσεύοντο, ποδῶν δ᾽ ὑπένερθε κονίη
ἵστατ᾽ ἀειρομένη: τοὶ δ᾽ ἀλλήλοισι κέλευον
ἅπτεσθαι νηῶν ἠδ᾽ ἑλκέμεν εἰς ἅλα δῖαν,
οὐρούς τ᾽ ἐξεκάθαιρον: ἀϋτὴ δ᾽ οὐρανὸν ἷκεν
οἴκαδε ἱεμένων: ὑπὸ δ᾽ ᾕρεον ἕρματα νηῶν. (2-149~54)
その如くに集まった者共は動揺した。彼等は叫び声を上げ
船へと殺到した、足下からは砂塵が
舞い上がった、彼等は互いに命じた
船に取り付き輝く海に引き下ろせと
進水路を掃除した、喚声は天空に達した
帰郷を逸る者共の(喚声は)、彼等は船の下の支え木を外していった
生彩に富んだ描写です。
Seymour はこの一節の時制に着目し、ἐσσεύοντο 以下 ἵστατο、κέλευον、ἐξεκάθαιρον、ἷκεν、ᾕρεον と連なる未完了過去について、descriptive impfs., much like the hist. pres. (which is not Homeric) と註を付けています。
また、Kirk は詩節の構成について、「切迫感が149、150、151そして153行目の分断された詩句と力強い行跨がりの連続によって強調されている。152行目だけは対照的に途切れることない流れで語られておりスムースな進水を表現しているようにも感じられる」と指摘しています。これは的を射た指摘です。ただ「分断された詩句と力強い行跨がりの連続」には154行目も加えていいのではないかと思われます。
更に、ここで出てくる語を見ると、「音」を指す語(ἀλαλητῷ、κέλευον、ἀϋτὴ)と「動き」を指す語(κινήθη、ἐσσεύοντο、ἵστατ᾽ ἀειρομένη、ἅπτεσθαι、ἑλκέμεν、ἐξεκάθαιρον、ἷκεν、ᾕρεον)が次々と繰り出され、兵士達の慌てふためく様が髣髴とします。οὐρούς(進水路)とか ἕρματα(支え木)とか、引き上げられた船に特有の用語も出てきて臨場感を高めています。
大混乱です。研究会では「大義とか名誉とかにとらわれない、一般兵士の本音がよく出ている」との感想がありました。それは現代でも真理です。ホメーロスの世界は優れて英雄世界ですが、詩人は一般兵士の本音にも目配りを欠いていません。
アカイア勢のあまりの混乱振りに、いまにも「定業を超えて帰還の運びになりはせぬか ὑπέρμορα νόστος ἐτύχθη(155)」とヘーレーは心配し、アテーネーに言います。
σοῖς ἀγανοῖς ἐπέεσσιν ἐρήτυε φῶτα ἕκαστον,
μηδὲ ἔα νῆας ἅλα δ᾽ ἑλκέμεν ἀμφιελίσσας. (2-164,5)
そなたの優しい言葉によって各人を引き留めなさい
両端の反った船を海に引き入れるに任せてならない
するとアテーネーは「否やのあろうはずなく οὐδ᾽ ἀπίθησε(166)」承知し、「またたく間に καρπαλίμως(168)」アカイア勢の船陣に行きます。
εὗρεν ἔπειτ᾽ Ὀδυσῆα Διὶ μῆτιν ἀτάλαντον
ἑσταότ᾽: οὐδ᾽ ὅ γε νηὸς ἐϋσσέλμοιο μελαίνης
ἅπτετ᾽, ἐπεί μιν ἄχος κραδίην καὶ θυμὸν ἵκανεν: (2-169~71)
すると知謀において神にも並ぶオデュッセウスを見つけた
突っ立っているのを。彼は櫂座よき黒塗りの船に
とりついてはいなかった、苦悩が彼の心を襲っていたのだ
オデュッセウス登場です。実はオデュッセウスが『イーリアス』に顔を出すのはここが初めてではありません。第一歌でクリューセーイスを父親の許に返還する際の使節の長として名が出ていました(1-430~)。しかしそこでは実務的役割を果たすにとどまっていました。本格的登場しオデュッセウスらしい活躍を見せるのはここが初めてです。
次回ホメーロス研究会は6月8日(土)で、『イーリアス』第二歌172行目から197行目までを予定しています。