戦争と自殺と | あっこちゃんの「あ〜人生はすべてぬちぐすい」ブログ

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セラピスト細川明子の日々いろいろ人生いろいろ。
日々いろいろ人生いろいろあるけれど、ぜんぶが命の薬(ぬちぐすい)なんだよね。

なかなかなタイトルですが。。。

 

 

 

 

どうしても

カウンセリングとかセラピーとかの仕事をしていると

ひとの中の闇の部分は、避けることができない。

 

それは

もちろん自分の中の闇に向かい合うことにもなる。

 

 

 

 

 

 

 

あれはたしか

小学校三年生くらいのとき。

祖母の家に遊びに行ったとき。

夜、祖母と枕を並べて寝ようとしていたときだった。

その前になにを話していたか、

なにがあったか、ぜんぜん覚えていないのだけど、

あのとき祖母が言った言葉は、

しっかり覚えている。

 

「あっこちゃん、

にんげんは、しょうがないけど

戦争が必要なんだよ」

 

そのとき子どもだった私は、

びっくりしてしまった。

 

え〜と、え〜と、

戦争っていけないものじゃないの?

 

それまでも

それからも

祖母は、戦争中どんなに大変だったか、

どんな危険なことがあったか話していた。

 

疎開先の田んぼ道を歩いていたら

戦闘機に銃撃されて、

あのとき死んでいたら、おまえはこの世にいなかったんだよ、

という話は、何十回も聞かされた。

 

その祖母の言葉だったから

どう受け止めていいのかわからなかった。

 

あまりにわからなかったから、

その後も

あの言葉の意味を聞くことすらできなかった。

 

そして

今までずっと考えている。

祖母は、どんな気持ちであの言葉を言ったんだろう。

 

祖母は、すでに他界しているから聞くことはできない。

 

今だったら、聞いたかな。

どうかな。

 

やっぱり聞かなかったかもしれない。

聞けないくらい、なにか重みを持った言葉だったから。

 

そして、

聞かなくてよかった、とも思う。

聞いていたら、

こんなにも私の中に残らなかったかもしれない。

祖母が残した宿題に

ずっと取り組んでいるのも悪くない。

 

 

 

 

そのせいか、

今、私はかんたんに

「戦争反対」と言えない。

 

もちろん戦争になったら、いやだ。

怖いし、

たぶんいろんなことが変わるだろうし、

緊張感がある毎日とか、

この先がわからないという不安も出てくるだろう。

 

かといって、

かんたんに「戦争反対」とは、言えない。

 

それよりも

なぜひとは戦争をしてしまうのだろう、

と、ずっと考えている。

 

ずっと考えているけど、

わからない。

 

いろんなひとが言うことも参考にしながら

わかってきたこともあるけど、

まだまだわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 

同じようなことが

「自殺」について。

 

私は、自殺はいけないものだとは思っていない。

 

誤解のないように補足すると、

「いい」とか

「いけない」とかの価値基準のものではないと思っている。

 

戦争についても、同じで、

戦争も

「いい」とか

「いけない」とかではないと思っている。

 

「いじめ」についても同じかな。

いじめは、いけない、

と言ってしまった時点で

なにかものすごく大事なことを置き去りにしてしまう気がする。

 

「差別」にしても、そう。

差別は、いけない、

という時点で、

それってすでに差別なんじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

いままで

何人かの患者さんが

自殺した。

 

とても悲しかったし、

今も悲しい。

 

そしていまも

何人かの患者さんが

「死にたい」と相談に来る。

 

あなたが死ぬと

私が悲しい、だから死なないでほしい、

と話すが、

自殺は、いけないとは言わないし、言えない。

 

もういちど言うと、

「いい」とか

「いけない」は

価値基準のひとつにしかすぎない。

 

その価値基準から離れないと

見えないことは

たくさんあると思っている。

 

「受け入れられる」か「受け入れられない」とか、

「いい」とか「いや」とか、

「好き」とか「きらい」とか。

 

「いい」「いけない」という基準は、

私個人の基準ではなくて、

社会や世間や文化の基準とごちゃごちゃになる可能性がある。

正論みたいに。

 

それって

実はとても怖いことだと思う。

 

戦争って

正義と正論を振りかざしてできるものだもんね。

 

正義と正論を振りかざすときって

自分の中の弱さを

どうしていいのかわからないときだと思う。

 

弱さを認めたくないから

受け入れたくないから

どう弱さを守っていいのかわからないから

どうしていいのかわからないから

「いい」とか

「いけない」に収まっていくのは

かんたんすぎじゃないのかなあ。

 

 

 

 

 

 

 

「死にたい」と相談しに来るひとに

私もどうしていいのかわからないと話す。

そして、いっしょに悩んで考える。

 

そうそう

いっしょに悩んであげることが

寄り添ってあげることが大事、

とカウンセリングのマニュアルみたいに思ってしまったら、

まったく違うものになるとも思っている。

 

ひとに

マニュアルで関わってはいけないでしょ。

 

いままで自殺してしまったひとたちも

なんでか、ほんとうのところはわかならい。

 

反対に

未遂で終わったひともたくさんいる。

 

なぜ、その人たちは未遂で終わったのか、

そして、死んでしまった人たちは、

なぜ死という一線を越えてしまうことになったのか、

いろんな人を見てきたけど、

どの人ともさまざまな話をして

深く関わってきたけど、

やっぱり、わからない。

 

自分の患者じゃないか、と言われるかもしれない。

 

私もそう思った。

 

あのひとのなにをわかっていたんだろうか、

なにもわかっていなかったんじゃないか、って。

 

そうなると

いま、目の前にいる患者さんのなにをわかっているのか

わかっていないんじゃないか、と怖くなったことがあった。

 

そんなことを

すごく考えて

その気持ちをとことん感じていった。

 

そしてわかったことは、

わからないのが当たり前、

わかったと思うのは、大きな誤解だし、傲慢なこと、

相手のことがわからなかったら聞けばいいし、

相手もわからないことは、わからないってことに

ただ寄り添えばいいし、

わかろうとし続けることが大事なんじゃないか、ってことだった。

 

そして

私はセラピストなので、

いちばん大事な役割は、

私が相手のことをわかることじゃなくて、

そのひとが自分のことをわかっていくお手伝いをすること、

それがはっきりした。

 

私がわかってあげたからって

それが、なにになるだろう。

 

 

 

そしてまた

「わかる」

「わからない」も

価値基準のひとつにしかすぎないしね。

 

そこにとどまりすぎると

見えなくなってしまうことも

たくさんあるんじゃないかな。

 

でも

わからないことを、わからないままにしておくって

けっこう勇気がいるんだよね。

 

わからないって

不確定で

不安定なこと。

 

それを受け入れるのって

けっこうチカラがいる。

 

 

 

 

 

 

 

前世療法をとおしても

ひとの深さ

謎って

奥深すぎて

わからないことだらけ。

 

わからないものは、わからない。

 

それをわかった気になるために

早く結論付けなくてもいいし、

さらに、わかりやすい言葉でくくったら

よけいにわからなくなるんじゃないかと思う。

 

だから私は

戦争反対、とただ言うことはしたくない。

 

祖母が言った言葉とともに

戦争って、なんだろうって

ずっと考え続けたいと思っている。

 

「死にたい」って言う人とも

ずっといっしょに考え続けたいと思っている。

 

 

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