人は あるもの には 気づかない。

 

当たり前だから。

 

しかし、ないもの には 気づく。

 

あるもの は 見えず、 ないもの を 人は見る。

 

例えば 空気、、、

 

あるはずなのに、普段 「空気がある、酸素がある」

 

そんなこと 思う人はいない。

 

しかし、それが もし なかったら

 

なくなる危機に ひんしたら

 

そのとき 私たちは そのものの 大切さに 初めて 気づく。

 

平和も同じ。

 

当たり前と思っていたら 平和の尊さに 私たちは

 

愚かにも きづかない。

 

「平和」が なくなったとき その 尊さに 気づく。

 

しかし もう遅い。

 

それは それで 仕方がないことなのかもしれない。

 

健康な時は その 偉大さが 私たちには わからない。

 

「健康」が 欠けた時

 

これもまた 言わずもがな。

 

時すでに遅し。

 

だが、そうした現実のありようを 知ることで

 

あるもの 当たり前のように あるもの

 

これに 気づくことも 私たちには できる。

 

「当たり前」 は 「当たり前」ではない。

 

そのことに 気づくことができる。

 

そして、私たちは それに 気づかなければならない、、、

 

私は そう思う。

 

在るものは 見えなくて 無いものこそ 見える。

 

人の心は 見えない。

 

しかし、だからこそ 「見」なければならないのではないでしょうか。

 

自分自身を 直接 自分で 見ることはできない。

 

だから 人は 「かがみ」を見る。

 

鏡に写る あなたは 本当の あなたですか。

 

自信を持って そう言えますか。

 

鏡に写らないもの 

 

それこそ みなければならないもの、、、

 

そうのようにも 私は 思います。

 

自分だけではありません。

 

他人の心も 私たちは 見えません。

 

だからこそ また これも 見なければならないもの。

 

このように 言うのは 簡単です。

 

だから 結局 私たちは 至る所 何も 見えないまま

 

死んでいきます。

 

死んだ自分も 当然 自分には 見えません。

 

当たり前の「生」と 非当たり前の「死」

 

mement mori 

 

死を思え と言う意味です。

 

生きるために 死を思え、、、

 

生命は 儚いものです。

 

洞窟に 写る 影のようなものです よね。

 

また、

 

光 そのものは 見えません。

 

ですが、光がないと 私たちには 何も見えません。

 

闇すら 見えません。

 

光があるから 闇がある。

 

明るいところがあるから 暗いところがわかる。

 

死んでしまった くろさんは 魂が抜けたようでした。

 

そのようにしか 私には 感じられませんでした。

 

ですが、それは 私に 散ってしまった 魂を

 

見る目を 持たなかったから。

 

ただ 見えない それだけのことです。

 

見えない と 無い とは 違います。

 

くろさんは 私には 見えない 「場所」で

 

「生きて」いる、、、そう思います。

 

その「場所」とは どこか…

 

きっと

 

きっと

 

私の心の中 なのかもしれません。

 

私の見る夢の中 なのかもしれません。

 

ただ、より 確かに 言えることは 私の魂も

 

いつか その「場所」に 行くのでしょう。

 

目に見えない しかし 当たり前 の 「場所」へ。

 

もしかしたら それは 「今」という「場所」なのかもしれません。

 

だって 「今」も 「未来」も 「過去」も

 

私には 見えないところだから。

 

一寸先は 闇であり 光でもあります。

 

ねぇ くろさん!