このブログは、
ほりりんという間もなく56歳になるオッサンが、
現在の苦境を脱し、夢をかなえるまでの軌跡を記録するものである。
ほりりんは、フリーカメラマンである。
そう名乗っているが、ほぼプータロウである。
年金暮らしの老母の厄介になっている。
ついでに言えば、バツイチの独身である。
取り急ぎの課題は無収入からの脱却である。
と思って、アルバイトや派遣の仕事を探しているが、
応募してもコトゴトク落ち続けている。
正直、メンタルがやばい。
もう希望を描けなくなっている。
仕事を得たいと思いながら仕事を得た状態を想像しても嬉しくない。
金持ちになった状態を想像しても少しも心が動かない。
幸せってどんな気分だったっけ?
つらい、キツイという感情すら薄らいでいて
ただただつまらない。なにもやる気がしない。
生きていても意味がないように感じる。
普通に生きている他人を観察しても、
なぜ、あの人たちは当たり前のような顔をして普通に生きているのかわからない。
ただ、目の前の事象に反応しつづけているだけのように見える。
きっと生きる意味なんて考えないようにしているんだろう。
こんなだから、
あの人みたいになりたいという思いも抱かない。
どうせそーなったとて、と思ってしまう。
だから、そーなるための努力を想像すると、もう嫌な気持ちになる。
こんなほりりんも3年前までは会社員として働いていた。
28年間一生懸命働いた。
結婚もした。
子供も作った。
注文住宅の一軒家も建てた。
大型バイクでツーリングすることが趣味だった。
人生を充実させることに必死だった。
でも、いつも満たされなかった。
何かを得ることで充実できると思っていた。
いつまでたっても幸せな気持ちにはなれなかった。
過去を語り始めたら止まらなくなるので、一旦ここまでにしておこう。
それに、文字に起こしてみると、どうしても物事が一面からしか語れていなくて正確に表現できないように思える。
物事にはいろいろな側面があり、こちらから見れば不幸だが、こちらから見ればそうでもなかったりする。
とにかく、かつてのほりりんは、すくなくとも外側は幸福の条件を今よりは揃えていたにもかかわらず、全然幸せでなく、幸せの条件を求めて外の世界と格闘していた。今のほりりんは、幸福ではないし、幸福になろうという気力もない。
それどころか生きる気力も低下している。
元気が無いというだけでない、
なんか、とても空ろである。
空っぽなのだ。
右を見ても左を見ても
上も下も
前も後ろも
真っ暗闇である。
宇宙空間に一人で放り出されたようだ。
何もない。
無である。
発狂しそうになる。
覚者は、幸福がデフォルトであるというが、本当だろうか。
本当は、無なのでないだろうか。
幸せになるには、何かを足していかなければいけないのでは?
あぁ気が狂いそうだ。
幸/不幸というのは、度合いであって、
不幸だといっても、それは、幸福度が0に近いというだけで0ではない。
マイナスの状態があるとしたら0がデフォルトなのではないか。
今の自分は0なのかもしれない。
もしかしたら少しマイナス?。
単なる学習性無力感ではない?
鬱かもしれない。
これだけ長い文章を書いておいて
生きる気力がないだの鬱だのとは大げさだと思われるかもしれない。
でも、やっとなのだ。
こんなものを書いたところで状況が好転するとも思えない。
やったところで無駄だ。
どうせすぐに止めてしまうだろう。
であれば、最初からやらない方がましだ。
そう思って、なんども書こうと思ってはやめた。
今だって書くことに大した期待はしていないが、
ともかく、書いた。
これは、進歩だ。
《頭に浮かんだ言葉の断片》
外側に幸せの証拠を探す。
条件付きの幸せ。
幸せの条件。
これがあれば幸せになれるとか、条件付きの幸せは本当の幸せではない。
得て得ても満たされることはない。
何がなくとも幸せになれるとしたら、やはりデフォルトが幸せなのかもしれない。
足るを知る、とはすでに条件を満たしているということではなく、何もなくても幸せであることを思い出すということなのかな。
外側とは自分の体を含む物理世界
左脳的思考は外側をコントロールするためのモノ
外側に幸せはない?
いや、無くもないが、無条件の幸せをしっかり感じたうえで求めないと無限に渇望する。
右脳優位になれば幸せを感じられる?
右脳優位になるためには?
すくなくとも生きていてよかったと思えればよくねぇ?
書いたら幽かに気持ちが上がった。
ちょっとジャーナリング的な効果あんじゃねぇ?