神仏には、もっと自分をさらけ出してもオーケーです。
あ、いや、こういう言い方はちょっと違うかもしれません。
素のままの自分で接することが、ベストです。
う~ん、これもなんだか違うような……。
見えない世界の「感覚」を、言葉で説明するのは難しいですね。
もう少し具体的に書いてみます。
私を例にすると、神仏は、私自身(魂の私)を見ています。
宿っている肉体で判断をしません。
私はすでに立派なおばさんで、見た目も、もちろんおばさんです。
同じ年代では、松田聖子さんのように「お姉さん」という人もいますが、私は違います。
ですから、そこは自覚して、世間ではちゃんとおばさんとして行動していますし、おばさんとして発言をしています。
しかし、神仏が相手の場合、私には年齢がありません。
神仏は「肉体をかぶっているおばさんの私」と接しているのではなく、
「魂の私」「本来の私」「私という存在」を、相手にしているからです。
神仏に限って言えば、私には年齢がないのです。
ここ、このような説明で、理解してもらえていますでしょうか?
神仏にしてみれば、20歳の私も、50歳の私も、80歳の私も、同じ「私」なのです。
もしも、頭を「よしよし」と撫でてくれる神仏だったら、子どもにしかしないわけではなく、80歳の人でも、100歳の人でも、同じようにします。
肉体の年齢は関係ないからです。
で、これは、逆に言えば、私たち人間は神仏に対して、思いっきり本来の自分のままでいい、ということです。
神仏が相手なら、60歳を過ぎていても、女子高生のようにキャピキャピしてもいいし、
「大好き」丸出しで、頬をポッとピンクに染めてもいいわけです。
肉体はおばちゃんですが、ワクワク・ドキドキ全開で「頭を撫でてくれるかなぁ」と、目をキラキラさせてもいいのです。
このような気持ちで神仏に接することが、自分にとってもベストです。
素のままの自分で、信仰を素直に表現できるようになるからです。
かしこまった接し方よりも、もっと神仏に近づけますから、親近感も違ってきます。
ということで、うまく神仏に語りかけられないとか、気を使うという方は、一度、年齢を取っ払って、素の自分で接してみることをおすすめします。
私はいつも無意識にこうしているため、神仏と接している時だけは、いくつになっても妙に若い、というわけです。(←ツッコミ厳禁です)