トイレをどの神仏が担当しているのか、どのような神仏がトイレにいるのかは……「宗教」によって違います。
仏教では、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)という仏様になっています。
ヒンズー教とかイスラム教とか、他の宗教については詳しく勉強していないのでわかりませんが、それぞれ、担当となっている神仏がいるのかもしれません。
読者さんからの情報では、沖縄はフールヌカミという神様だそうです。
地域や国によっても違いがありそうですね。
さて、その烏枢沙摩明王です。
世界大百科事典では、このように解説されています。
「烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)」
サンスクリットUcchuṣmaの音訳語で,インドでは元来火の神アグニを指した。
烏枢瑟摩とも書き,不浄潔金剛,火頭金剛,穢積(迹)金剛,不壌金剛,受触金剛ともいう。
いっさいの不浄や悪を焼きつくす霊験のある明王として,死体や婦人の出産所,動物の血の汚れを祓う尊としての信仰が主流で,真言宗や禅宗では東司(とうす)すなわち便所の守護神としてまつられている場合が多い。
この「明王」のことが知りたかったのと、トイレに別の神仏が同時にいることができるのだろうか? という疑問もあったので、おふだ(護符)をお寺で買い、トイレに貼ったことがあります。
もちろん、貼っている間、お掃除もしっかりやりましたし、ちゃんと信仰もしました。
すぐにはわからないだろうと、時間をかけて検証をしました。
しかし……残念ながら、私には烏枢沙摩明王は見えませんでした。
烏枢沙摩明王のおふだを貼っていても、見えたのは、髪の長い女性姿の神様です。
仏教の波動があるものを貼って、線香までたいてみたことがあり、トイレ内を仏教世界にしても、そこにいたのは女性の神様だったのです。
もしかしたら……ですが、「開眼した」烏枢沙摩明王の仏像をトイレに置けば、烏枢沙摩明王が出てくるのかもしれませんが……
護符では一切見えませんでしたし、おられませんでした。
というか、そこまでやったのに、いたのは女性の「神様」なのです。
実はこのように、私が見る事実は、「宗教」の教義とは異なっていることが、たまにあります。
そのことを書くのは、皆様が思っている以上に、勇気がいります。
さんざん悩んで、悩んで、悩み抜いた末に書いたのが、吉野山の蔵王堂にいる「木像蔵王権現立像」です。
こちらの仏像を、私がご縁をいただいている〝不動明王〟だと本に書きました。
そもそも「権現」とは、仏様が神様として現れている、という状態をさしたものです。
日本の仏教は、日本で古くから信仰されてきた神様と、仏様を、同じであると結びつけました。
それで、日本固有の神様を、仏様が衆生を救うために仮に現れた姿である、と考えるようになったのです。
その結果、神様をナニナニ権現と呼ぶようになりました。
吉野山の蔵王堂の金剛蔵王大権現は少し違っていて、
役行者の祈りにこたえて、お釈迦様・観音さん・弥勒菩薩の3体の仏様が、柔和なお姿を捨てて、荒々しい忿怒の形相となった、と伝わっています。
私が言っているのは、このお寺にある「木像蔵王権現立像」ですから、お不動さんのはずがないのです。
仏教では、不動明王は大日如来の化身とされていますから、二重の意味でありえません。
ですから、私が書いた内容を読むと、仏教関係者の人は「は?」と思うと思います。
何を言ってるんですか、権現さんは不動明王ではありませんよ、と……。
でも、私には不動明王がハッキリと見え、お話もしました。
何回もここに足を運びましたが、ちゃんと毎回、大きな力を持ったお不動さんが出てこられました。
さらに、初回にお会いした時に、不動明王の真言まで教えてくれたのです。
その真言も、天台宗と真言宗を足して2で割ったという、どちらにも偏っていない、まさに平等とも言える真言でした。
私は、正真正銘、見たまま、聞いたままを、そのまま書いています。
宗教関係者の人に、間違っているとか、それはおかしい、と言われるかもしれないことは、私自身が一番理解しています。
でも、宗教への気遣いを入れてちょっと内容を変えたり、批判を恐れてうまく誤魔化したりすることは、神仏に厳しく止められております。
ですから、本当に、見たまま聞いたままを、正直に書いているのです。
今回のトイレの神様も、吉野山の「木像蔵王権現立像」がお不動さんだったという、それと同じです。
トイレにいるのは、必ず女性姿の神様なので、そう書きました。
納得がいかない、違和感がある、という方もおられると思います。
ご自分の信仰するものと違っていれば、当然です。
そのような方は、ご自分が「信じている」、そのままでいいと思います。
私の意見に合わせる必要はありません。
「識子さんには女性の神様に見えるのね、ふ~ん」でオーケーなのです。
見えない世界のことは、自分の直感が大切です。
尊重すべきはそちらです。