今年に入ってから、「人生」「人生の最期」について考えさせられることがいくつもありました。
「人生」については、まだまだ学ぶべきことがたくさんあります。(引き続き勉強中です)
今回、「ああ、そうなんだ~」と思ったのは、人間、死ぬ時は、自分がいる場所を見ているのではない、ということです。
たとえば、病室が高額で贅沢な個室だったとしても、豪華な個室で死ねてよかった、などと考えないのです。
自分がいる場所はわかっていますが、心の目はそこを見ていないからです。
逆に、大部屋の病室でも、救急車の中でも、介護施設でも、この場所で逝くのはイヤだなぁ、とも思いません。
「死」は、大事な自分の人生を締めくくるものです。
今まさに人生が終わろうとしている、その貴重な時に、自分がいる場所をじーっと見て、狭いとか、自宅がよかったとか、場所の感想を考えたりしないのです。
さらに、誰が駆けつけてくれたのか、誰がまだ来ていないのか、ということも気にしていません。
もしも、気にしていたとすれば、それはまだ死ぬ「瞬間」ではない、ということです。
亡くなる瞬間に見るのは、今から幕を閉じる「自分の一生」です。
寝ている場所の不満や、亡くなる自分の周囲に誰がいるのかなど、日常的な……もっとハッキリ言えば、世俗的なことは頭の中にありません。
ここまで頑張ってきた、自分の歩みを振り返るのみ、なのです。
「ああ、人生が終わるんだな~」と、穏やかに、笑顔で、自分に対して「おつかれさま」と言っています。
あの時期はよく頑張ったとか、あの時は楽しかったな~とか、なかなかいい人生だったとか、今から去る「人生」をいつくしんでいます。
死ぬ瞬間は……崇高なのです。
最期に会っておきたい、という人には、ありがたいことに、魂が体を抜けて自分から挨拶に行けるシステムになっています。
ですから、生きているほうからすると、死に目にあえなかった、申し訳ないと後悔していても、実は、故人のほうはちゃんと死ぬ前にしっかり会っています。
生きている人間が気づいていないだけなのです。
親しい人の死に目にあえなかった、間に合わなかった、という方、ひとりで逝かせてしまって申し訳なかった……と思っている方も、その後悔は不要です。
手放したほうがいいです。
親御さんや祖父母を介護施設に入所させて、その方がそこで亡くなったという場合も、
自宅で死にたかったのではないか、自宅で死なせてあげるべきだったのか……と、こちらも悩まなくても大丈夫です。
前述したように、場所についての不平不満をグチりながら亡くなったりしないからです。
どこで迎えようと、崇高な死は崇高な死です。
死に目にあえなかったという方も、自宅で看取ることができなかったという方も、後悔すればするほど、亡くなった方を逆に悲しませることになります。
「後悔させてごめんね」と、故人は自分のことで悩んでいる姿を見て、胸を痛めているのです。
なので、そのような後悔は、故人のためにも、手放すことが大切です。