読者さんからいろいろなメッセージを日々いただいております。
その中に「こういう状況で、このようなものを見ました」という報告が、以前に比べて、結構な数で届くようになりました。
具体的にいうと……たとえばですが、神様に「いつかお話ができるようになりたいです」とお願いをした直後、空に龍の形をした雲が現れた、とか、
神様に「いつかお姿が見えるようになりたいです」とお願いをして写真を撮ったら、どう見ても眷属の狼が数体写っているように見えた、とかです。
白いもやのようなものがいきなり見えたという方もいますし、一瞬空間がゆがんで見えたという方もいて、見えるものはいろいろです。
神様霊能力をアップしたいとお願いした時、神様に悩みを相談した時、いろんなことで落ち込んでいる時、などが状況として多いようです。
そのような時にサインともいえるものが見えた、見えない世界のものが写真に写っているように撮れた、という報告が、ここ最近、格段に増えています。
で、ほとんどの方が、喜んでいるのですが……
「ただの偶然だと思いますけど」とか、「木々の影でそう見えるだけでしょうが」というふうに、ご自分が見たものを、事実として100%受け入れていないひとことを、最後に書かれている方もいます。
たぶん、もしも違っていたら恥ずかしい、自分にそんなミラクルが起こるはずがない、自分にそこまでの神様霊能力があるはずがない、というふうに、謙虚なお人柄から来るひとことだと思います。
その控えめな考えは好感が持てます。
でも、付け加えているひとことは……必要ないです。
たとえば、岩の形が狛犬に見えたとしましょう。
それは誰にでもそう見えるわけではないのです。
大多数の人にはただの岩としか見えません。
それが狛犬に見えたということは、神様に、狛犬に見えるように「してもらっている」ということです。
もしくは、本当にそこに眷属がいて、それを神様霊能力で感知した、ということなのです。
見えない世界の出来事をそのまま信じるのはたしかに難しいです。
けれど、大事なのは「自分の感性を信じる」ことであり、すべてはここからです。
岩が狛犬に見えたら、素直に喜んでいいのです。
それは神様にもらったもの……神様にもらった「見えるもの」、神様に「見えるようにしてもらったもの」だからです。
疑わなくても、否定しなくても、客観的に考えなくてもいいのです。
見えない世界がどんどん見えてくる、わかるようになってくる、という段階に進むためには、ちょっとでも自分の感性を否定したり、疑うのはマイナスです。
ただの偶然かもしれないとか、木々の影でそう見えるだけかもしれない、と、ほんのちょっぴりですが、このように否定をすると、顕在意識が魂からのサインを受け取らなくなることがあります。
見えない世界の出来事を受け入れるのは、自分の中の常識的な部分や、世間的な考えが邪魔をします。
でも、見た場所が「神社仏閣」であり、見たのは「自分」です。
ありがたくそのまま受け取ってもいいのです。
私にメッセージを送る場合は、見たものや感じたことをありのまま書いても大丈夫ですが、スピリチュアルなことを信じていない人に話す時は、「変な人」と思われないために、否定するひとことは、つけたほうがいいかもしれません。
ということは……
否定するひとことをつけなければいけない人には、ご自分のために、その体験は話さないほうがいいように思います。
11月12日発売です。