家の中に飾るおふだには、「神社(神様)のおふだ」と「お寺(仏様)のおふだ」があります。
お寺のおふだというのは、こういう神社と同じような形のもののことで、
1枚の和紙に描かれた「護符」のことではありません。(お寺によってはおふだを1枚の和紙に描いたものにしているところもあります)
おふだには神様や仏様の波動が入っています。
逆に言えば、波動が入っているだけです。
開眼した仏像のように、仏様につながっているのではありませんから、仏様がおふだから顔を出したりしません。
神社のおふだも波動が入ってるだけで、神様が中に入っているのではありません。
どちらも本人ではなく、おふだには意思もありません。
神様のおふだと仏様のおふだを一緒にしないほうがいい(同じ壁に飾らないほうがいい)のは〝宗教〟をごちゃ混ぜにしてはいけない、という理由からです。
明治になって出された神仏分離令によって、神道という宗教と、仏教という宗教は、きっちり2つに分かれました。
完全に別物なのです。
現代はどこに行っても、ちゃんと「神社」か「お寺」のどちらかになっています。
境内に入ったら神仏習合の名残りがあるというところは今でも見かけます。
長滝白山神社のように神社とお寺の敷地が一緒というところもまれにあります。
しかし、同じ敷地内にあっても神社の社殿と、お寺の本堂は別で、中に安置されているのも、仏像とご神体という違いがハッキリしています。
敷地も神社エリアとお寺エリアに分かれています。
宗教が違うからです。
これは、向こうの世界……見えない世界でもそうです。
もともと神道と仏教は同じ宗教ではありません。
日本古来からある神道と、外国から入ってきた仏教はまったくの別物です。
見えない世界でも、もとから全然違いますし、今ももちろん違います。
〝宗教〟が違うのですから、波動も違います。
一緒に置いたらごちゃ混ぜになります。
「でも、昔は神仏習合で、ごちゃ混ぜだったのではありませんか?」と思われた方がいらっしゃると思います。
どの時代であっても、〝宗教〟は別です。
しかし、日本人が一緒にしてしまったので、神様と仏様が「仕方ないなぁ」ということで、特別に仲良くしてくれていました。
人々を救うためにです。
それが実情なのです。
なので、昔のおふだの波動は(神仏習合かどうかで、神社仏閣によります)、最初から神仏習合としてちょっと混ざっていました。
それはつまり、神仏がブレンドして入れてくれていた、ということです。
今は完全に分かれていますから、全然別の2つの波動を、人間が、家の中でブレンドするということになります。
事情がまったく違うのです。
神仏習合が今も息づいている日吉大社東本宮のおふだでも、現代はキッチリ神道の神社ですから「神社のおふだ」です。
お寺のおふだは隣に置かないほうがいいです。
延暦寺のおふだだけは大丈夫だろう……とは思うのですが、これも検証してみないことには確実なことが言えません。
延暦寺のおふだは「仏教のおふだ」だからです。
というわけで、「神社のおふだ」と「お寺のおふだ」は同じ壁に、影響をし合うように飾らないほうがいいです。
「あれ? 神棚と仏棚は並べてもいいと言ったではありませんか?」という質問を持たれた方がいらっしゃるかもしれません。
神棚と仏棚は「ワールド」「世界」が分かれています。
〝神棚〟〝仏棚〟を作ることで、神様ワールド、仏様ワールドがしっかりと作られて、結界になっています。
結界がない、裸のおふだとは違います。
神棚と仏棚に関して言えば、同じ1枚の棚の上に、神様のお社と仏像を一緒に置いてはいけないと書きました。
たとえば、神棚に観音さんの仏像とか、阿弥陀如来像とか、お大師さん像を置いてはいけないのです。
理由は、宗教をごちゃ混ぜにしてはいけない、ということで、おふだを隣に置かないということと同じです。
「ワールド」「世界」を作って、それぞれの結界が張られれば、並べても問題ありません。
おふだはただの波動だから、隣に置いても大丈夫だろう、と私も最初はそう思いました。
新刊本のおふだの検証として置いてみようと思ったのですが、置こうとした瞬間に「あ、これはヤバい」とわかったのでやめました。
というわけで、神社のおふだとお寺のおふだは、壁を別にして飾ったほうがいいです。
※続きます。