玉置神社の続きです。
参道の途中に、道が分かれているところがあります。
玉置の神様を信仰する方が増えたんだな~、と思いました。
以前には、まったくなかった旗が……
たくさん立てられていて嬉しかったです。
「元気にしていたか?」と言われ、見上げたら、このご神木が優しく見下ろしてくれていました。
玉置の神様のご神気で、みんなが優しい境内です。
手水舎のところから撮っています。
鳥居の向こうの石段を登ると、
ここに出ます。
多くの人がいて、ビックリ! しました。
この写真を撮っている後ろにベンチが2つあるのですが、どちらにもカップルとグループがいました。
拝殿前は何名か並んでいます。
今まで、ここで人に会ったのは、数えるくらいしかありません。
それも1人とか、せいぜい2人だったのです。
もうもう、本当に驚きました。
皆さん、写真を撮ったり、くつろいでいたりして、楽しそうでした。
山頂へ向かいます。
矢印のところが「玉石社」です。
こちらですね。
私はいつもここはスルーしています。
山頂にある道しるべが新しくなっていました。
和歌山はあたたかいイメージなので、雪が残っているんだ~、とビックリです。
久しぶりの山頂パワースポットです。
雲が多い日だったので、スカーッとした青空ではありませんが、
強くて良いパワーをたくさんチャージできました。
山頂にあるお地蔵さんには花がお供えされていました。
下山してきたところで撮りました。
人が少ないからチャ~ンス! と思っても3名ほど写っています。
山頂へ行くにはお稲荷さんの横を通るのですが、横を素通りする時に、毎回必ず、「お前は特別だ」と言われてきました。(笑いながら、です)
それが今回、「特別な人が増えてなぁ」と、嬉しそうにニコニコしていました。
つまり、ここのお稲荷さんは、玉置の神様に参拝をすれば、素通りOKなのです。
お稲荷さんはちょっと苦手……という人でも大丈夫ですね。
どなたもペコリとお辞儀はするでしょうから、それでまったく問題ありません。
参拝を終え、車に乗って、下山を始めると……涙が出て止まりませんでした。
神社を去ることがものすごく寂しいのです。
「ああ、玉置の神様には、またしばらく会えないのだな……」と思うと、寂しさで胸がいっぱいになりました。
相手は人間ではなく、神様なのに「好き」という気持ちが、内側からあふれ出てくるのです。
熊野に行く前は、落ち込んだり悩んだりして気分が暗かったのですが、「熊野に行こう!」と決めてからは、気持ちが一気にウキウキ状態になりました。
飛行機に乗り、ひとつめの参拝となった玉置神社に到着するまで、それはもうワクワクしっぱなしでした。
それまでの私とは一変しています。
神社にいる間は、「今、熊野にいるんだ! 玉置神社にいるんだ!」という、心の底からの喜びがありました。
次の熊野本宮へ行った時も、翌日、飛瀧神社に行った時もそうです。
どの神社でも同じで、神社に向かっている時間はウキウキ、ワクワクと最高に嬉しい気持ちでした。
そして、参拝している間はとっても楽しく、「幸せだなぁ~♪」という気持ちが強いのです。
どの神社も去る時は、逆にものすごーく寂しくなって、涙が出ました。
ここから離れたくない〜、と思うのです。
神様が「好き」だから、そういう気持ちになるのですね。
神様を「好き」という気持ち……これは、論理的に考えて「好き」になるわけではありません。
理由をつけて、こうだから……ああだから……それで、「好き」だと「決めた」わけではないのです。
「好き」は、気づいたら自分の中にあるものです。
誰が置いたわけでもありません。
この「感情」があるから、熊野へ行くまでも、行ってからも幸せで……帰る時は寂しかったのですが、それ以上に、神様方とお会いできた喜びや満足感がありました。
もちろん、暗かった気持ちも一掃されて、明るく前向きになれました。
熊野に行くまでと、帰ってきてからの環境や状況はまったく変わっていません。
変わったのは自分の「気持ち」だけです。
けれど、気持ちが変われば、「ストレスがつらい」という暗い生活が、「大丈夫、大丈夫」と前向きになります。
自分の気持ちが人生を変える……
気持ちの持ちようで、人生が変わる、ということを、今回、しみじみと実感しました。
状況は同じでも、前向きになったり、ポジティブに考えられたり、気持ちは明るかったりと、そこは全然違うのです。
暗い気分は胃を痛めたり、睡眠が十分に取れなかったりしますが、気分が回復すればそのような不調ともさよならできます。
「信仰」を持っていて本当に良かった、ということをしみじみ思いました。
ちなみに玉置の神様は人間のつらい気持ちを、半分取ってくれますから、そのごりやくもあります。
信仰心の種をくれた、祖父母に改めて深く感謝をした2日間でもありました。
※続きます。