仏様のシステムについては、『「神様アンテナ」を磨く方法』という本に書きました。
この本を読まれた方でしょうか、願掛けについて悩まれているようで、お手紙で質問をいただきました。
同じ悩みを持たれている方がいらっしゃるかも? と思ったので、ちょっと書いてみようと思います。
お釈迦様も空海さんも1人です。
あっちのお寺にもこっちのお寺にも、全国各地のお寺に空海さん像があります。
しかし、仏像の数だけ、空海さんが見えない世界にうじゃうじゃといるわけではありません。
お釈迦様もそうですし、お不動さんや観音様などの仏様もそうです。
では、たとえば、お釈迦様にお願いをしたい時、同じ1人のお釈迦様に道が繋がっているわけだから、どのお寺に行っても願掛けは同じものをしなければいけないのか……というと、そうではありません。
こっちのお寺のお釈迦様には健康をお願いして、違うお寺のお釈迦様には家内安全をお願いしてもまったく問題ないのです。
さきほど書きましたように、仏像からの道は同じお釈迦様に繋がっています。
道が繋がっていますから、お釈迦様本人がこの道を通って仏像に顔を出すことができます。
顔を出した〝仏像〟によって、お釈迦様の性質は全然違ったものになります。
まったくの別人、というくらい違う場合もあります。
仏様のシステムは、これはこれで理解しておいて、ちょっと横に置き、「仏像自体は別々のお釈迦様である」ととらえたほうがわかりやすいです。
A釈迦如来像から顔を出しているお釈迦様が、B釈迦如来像を別人であるかのように表現していましたから、考え方としてはこちらで問題ないのです。
お不動さんもそうです。
A不動明王像のお不動さんが、B不動明王像を別人のように表現していました。
顔を出したその〝仏像〟の特性によって、力や得意分野が変わってきますから、願掛けは別で構わないのです。
ついでに……といってはなんですが、観音様についても、ちょっと説明をしておきます。
「観音」と名のつく仏様はたくさんいらっしゃって、聖観音や馬頭観音、千手観音などいろいろと種類があります。
全部が同じ観音様……たった1人の観音様という仏様に道が繋がっているのではなく、聖観音、十一面観音、如意輪観音、馬頭観音、千手観音、その他「観音」と名のつく仏様は、見えない世界でも別の存在です。
仏教ではどのように教えているのか私は知らないので、もしかしたら教義と違った見解になっているかもしれませんが、私が見る限り、聖観音と千手観音、十一面観音、如意輪観音、馬頭観音等は存在自体が別人です。
ですから「観音」と名のつく仏様でも、たとえば千手観音と十一面観音は、神仏界でも別人なので、別々の願掛けをしてもまったく問題ない、ということになります。
(仮に……ですが、千手観音も十一面観音も、同じたった1人の観音様に道が繋がっていたとしても……仏像が違えば別人ととらえていいので、どちらにしても違う願掛けをしても大丈夫、となります)
クリックをするとユーチューブで曲が再生されます。
天から聞こえるメロディを曲にしています。