※前回の続きです。
前回、いたたまれないお話を書きました。
1人を仲間はずれにして、それを楽しんでいるかのような雰囲気だった3人のお母さん。
降りないのに、バスの発車と同時にピンポンを鳴らし、車内の凍りつくような空気を面白がっていた男性たち。
どうして幼稚園児の子どもが仲良くできるのに、大人である親が仲良くできないのか……。
なぜ、人に迷惑をかける意地悪を平気でするのか……。(いたずら、という言葉はちょっと違うような気がします)
人間はニュートラルな存在です。
「神仏」という善の存在と、「魔」という悪の存在の中間にいます。
ですから、やろうと思えば、悪いこともできます。
チクっとした小さな意地悪も、あくどいことも、残酷なこともできるのです。
それとは逆に、良いこともできます。
人を助けたり、神仏のお手伝いをしたり、動物や地球に対して優しいこともできます。
正しい生き方をして、人の模範となることもできます。
善でも悪でも、どちらの方向にも行ける……それが人間なのです。
話は変わって、私たちの体ですが、自分の体ですから自分のものだと思っています。
どう動かそうと自分の勝手、私のもの、俺のもの、という意識だと思いますが、実はそうではなく、体は借り物です。
死ぬまでの間、天からお借りしています。
体がなければ、魂はこの世でさまざまな経験をすることができないからです。
そして、借りているその体で、自分という人間を表現します。
毎朝ニコニコと「おはようございます」と挨拶をすれば〝感じがいい人〟となり、いつもイライラして人を睨みつけていれば〝とっつきにくい人〟となります。
体を使って〝行動する〟、口を使って〝話をする〟という方法で、自分がどういう人物なのか……を、形にしているのです。
どんなに素晴らしいことを考えていても、ただ思っているだけでは誰にも何も伝わりません。
思ったことは口でしゃべるか、パソコンに打ち込んで文字にしたり、紙に書いたりしなければ、人には伝わらないのです。
自分という人間、魂としての真の自分、それを表現できるように、天から、死ぬまでの間、体を貸してもらっています。
体を動かして行動することによって、また、口を使って話をすることによって、人の役に立ったり、人のために尽くすことができます。
人に迷惑をかける、人を嫌な気持ちにさせるなどの行為も、体を使ってしています。
ですから、この手や足を〝どう動かすか〟、貸してもらっている口で〝何を言うか〟は、非常に大切なことなのです。
手は自由に動かせますから、降りもしないのに降車ボタンを何回も押すことができます。
乗客が居心地悪くシーンとしている時に、笑いながら座席をバンバン叩いたりもできます。
しかし、その手は……高齢者がしんどそうに階段を上がる時に、そっとさしのべることもできるのです。
道に落ちている空き缶を拾うこともできます。
口もそうです。
面と向かって人に意地悪なイヤミを言い、悲しい気持ちにさせることができます。
陰でその場にいない人の悪口を言ったり、ブーブーと不平不満も言えますし、愚痴をダラダラと言うこともできます。
しかし、その同じ口は……「こっちに来て一緒におしゃべりしない?」と、たったひとことで人を救うこともできるのです。
「頑張ってね」「ありがとう」などの、人を癒すキラキラした言葉を使うこともできます。
手も足も口も、すべてをどう使うかは、本人次第です。
悪いほうにも、良いほうにも使えるからです。
面と向かって人に「どうしてわからないの! バカなの!」と、言ったとします。
相手はムカッとします。
〝人を嫌な気持ちにさせました〟ということを一つ、この世に残して死ぬことになります。
同じ口ですが、違う使い方をすると……。
「晴れてよかったですね、おめでとうございます」と、神社でたまたま遭遇した花嫁さんを祝福することができます。
花嫁さんはとても嬉しい気持ちになります。
〝人をあたたかい気持ちにさせました〟という行為を一つ、この世に残してあちらの世界に帰ることができます。
このように、体も口も、悪の方向にも、善の方向にも、どのようにでも使うことができます。
それが人間なのです。
「魔」のほうへ進んでいくのか、「神仏」のほうへ進んでいくのかは、自分で決められます。
どう行動したか、何を言ったかによって、自分という人物が決まってしまいます。
天からお借りしている、ありがたい、大切な体です。
悪い方向で使用するのではなく、できるだけ良い方向で使うよう心がけると、意識していなくても、神仏に寄り添った人生を歩んでいくことができます。
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