うわぁ! すみません! (>_<) と思いました。
昨日、「お元気ですか?」という件名のメッセージが、続けて2通届きました。
ブログが止まっているので体調を崩しているのでは? と、心配して下さった方もいらっしゃって……。
さらに今日の朝にも、体調やその他のことを気遣ってくれたメッセージが届き、本当に申し訳ない気持ちになりました。
とっても元気にしているのですが、ハッと気づくと5日もブログを更新していませんでした。
1日がものすごく早くて、あっという間に過ぎていきます〜。
言い訳を致しますと、ただ今、必死で執筆しております。
8月に、締め切りに間に合わないかも……とブログに書きましたが、なんと今回も……。
ううう。 (ノ_-。)
毎日、一生懸命頑張っているのですが、なかなか進みません。
と、泣き言はこれくらいにして、今日は神棚のことをちょっと書いてみようと思います。
少し前に読者の方のブログを拝見しました。
とても立派な神棚の写真がアップされていて、「丁寧にお祀りされているな〜」と思いました。
神様に対する信仰心というか、愛情が伝わってくる写真で、居心地の良さそうな神棚だったのです。
ただ、ひとつだけ、気になることがありました。
先に申し上げておきますが、ここからは〝神道〟という宗教とは意見が違うと思います。
それって正しいの!? 本当なの!? と、重たく考えずに、「ふ〜ん、識子さんはそういう見解なのね〜」程度にお読み下さい。
神道では、たぶん、お鏡をお社(やしろ)の前に置くようになっているのだと思います。
神社でもそのようにされているところがあります。
ただ、家の神棚では、お鏡はお社の〝中に〟入れたほうがいいです。
お鏡が大きくて中に入りません、という場合は、小さなものが神具店で売られています。
実は神様はおふだのような紙片や木片より、お鏡のほうが断然宿りやすいのです。
たとえば、伏見稲荷からおふだをもらってきます。
その時に、眷属が「この人を守ってあげよう」と、1体ついて来てくれたとします。
もらってきたおふだを神棚のお社に安置したら、眷属はおふだに宿ります。
しかし、そのおふだの前に、お鏡を置いて差し上げると、眷属はお鏡のほうに宿るのです。
そちらのほうが、ケタ違いに居心地がいいからです。
お鏡を用意したことを喜んでくれます。
おふだだと、1年たって交換する時に、宿り替えなければなりません。
お鏡に宿っていれば、いちいち宿り替える必要がなく、背後のおふだだけを交換する、ということになります。
眷属のほうも楽です。
「ずっと、この家を守ってやる」と、眷属が決心して滞在しているのなら、なおさらです。
おふだに宿らせるのではなく、お鏡を用意するほうが、礼儀正しい迎え方、ということになります。
一生コースで守ると言ってくれている場合、お鏡に宿った眷属が家の神様となります。
それが確実にわかったら、背後にある元の神社のおふだは不要ですから、もうもらってくる必要はなくなります(もらって置いていても構いません)。
3社タイプのお社だったら、3枚のおふだを中に入れていると思います。
その3社とも、見習いの神様か眷属が来て下さっている可能性があるので、お鏡も3社とも入れて差し上げるといいです。
そして常時、扉を2〜3センチ開けておきます。
お社の中にお鏡を入れたら、扉の前には別のお鏡をもう1個、置かなくていいです。(というか、置くと嫌がられます)
それから、3社造りのお社の場合、外から見たら扉が3つあって3社となっていますが、内部は仕切りがなくて、ツーツーになっているものがあります。
仕切りを作らなくていいのだろうか……と、悩まれる読者の方がいらっしゃると思いますが、仕切りは必要ないです。
神様のいる空間は、見えない世界でちゃんと3つに分かれているので、問題ありません。
ただし、1社の空間に1柱の神様、ということは厳守です。
内部がツーツーで仕切りがないため、おふだが4枚置けるからと、扉の数より多くいれてはいけません。
1つの扉が1つの空間であり、そこには1柱の神様のみ、なのです。
クリックをするとユーチューブで曲が再生されます。
天から聞こえるメロディを曲にしています。