3月に近くに行ったついでに、ちょっと関ケ原に寄ってみました。
古戦場なので、どんな感じの場所なのか……と、身構えるような気持ちがありましたが、行ってみると、想像していたような暗い陰はありませんでした。
ここは石田三成公陣跡なのですが、シーズンオフのため、あずまやの建て替え工事中でした。
残念ながら、立入禁止です。
このような説明板がありました。
10月21日の早朝……って、かなり寒そうです。
雑兵はしんどかっただろうな、と思いました。
石田三成公陣跡の別の登り口です。
ここも立入禁止でした。
あきらめきれない私は、ちょっと裏側にも行ってみようかな、と、ぐるっと回ってみましたが、やっぱりダメでした~。
残念です。
この石碑には「決戦地」と書かれています。
え? ここが? とびっくりしました。
というのは、この石碑から石田三成公陣跡は、もう、本当にすぐ目の前なのです。
写真で見ると遠くに見えるかもしれませんが、実際はすぐそこです。
距離感が伝わっているでしょうか……。
関ケ原の戦いって、広大な大地の、ひろびろ~とした場所で行われたのかと思っていましたが、意外と狭かったんだな、というのが正直な感想です。
家康さんの最後の陣地です。
この陣地を見ようと、車を降りた瞬間から、猛烈な頭痛がしました。
同時に、右肩に何かがずっしりと乗って、肩にもキリキリと激痛が走ります。
石田三成公陣跡や石碑のところ、その周辺などは用心していたのですが、家康さんは勝利者ですから、何も気にすることはないだろうと思っていました。
そばに寄って行くにつれ、頭痛が半端なくひどくなります。
右肩も「イタタタタ」と言わずにはいられないくらいの激痛です。
勝ったほうの大将の陣地なのに、怨念に近い重苦しい念が渦巻いているのです。(現代ではなく、過去のこの場所に、です)
説明が書かれていました。
読んで……ああ、やっぱり……とそこですべてがわかりました。
首実検……つまり、敵将の首を家康さんがここで、一つ一つチェックしているのです。
その敵将たちは首だけになっても、討ち取られたことが無念で無念で、くやしくて仕方なかったようです。
首だけになったのに、ものすごい念を放っています。
それは殺されたくやしさではありません。
首を取られたことが何よりもくやしくて、さらに首実検をされたという屈辱に、強い怒りがあるようです。
う~ん、あそこで(↓下の写真です)首実検をしたのでしょうか……。
これ以上、そばに行くのはやめました。
以前にも書いたかと思いますが、強い念や低い波動があった場所で当時のことをあれこれ深く考えると、〝その時〟に繋がってしまいますから、影響を受ける人がいるかもしれません。
〝その時〟に思いをはせるということは、自分の意識を過去に持っていく、ということになります。
過去のそこにある、強烈に低い負の波動を浴びてしまいますから、ダメージも大きいです。
意識を〝過去のその時〟に合わせなければ、まったく何の問題もないのですが、気づかないうちに影響を受けている場合があるかもしれません。
おかしいと思ったらその「場」から離れれば大丈夫です。
「念」ですから、憑かれることはありません。
その場を離れると時間とともにダメージは薄れていきます。
霊感がある方、そういうものの影響を受けやすい方は、霊感アンテナをオフにして、〝現代〟から意識を離さないように気をつけるといいです。
家康さんは、この桃配山に最初の陣を構えたそうです。
ここは石田三成公陣跡から結構距離があります。
なんだか狭いな、と思いました。
家康さんと側近だけがここに登っていたのでしょうか。
こんな感じです。
これが、家康さんが見たであろう景色です。
木が邪魔で……戦いの場である左のほうがよく見えません。
この山の背後はどうなっているのだろう? と思い、桃配山の奥へと行ってみました。
するとここに出ました。
たまたま新幹線が来て、いい写真が撮れました~。
歴史民俗資料館のパンフレットに載っていた東軍と西軍の陣形です。
裏切る行為がなかったら、勝てていたのかな、と思える配置です。
こちらは「関ケ原合戦の史跡めぐり」図ですが、「壬申の乱史跡めぐり」図もありました。
壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が兵士に山桃を配って激励したのが「桃配山」の名前の由来だそうで、家康さんはゲンをかついで最初の陣を桃配山に構えたそうです。
そのへんをもうちょっと知りたいな~、と、歴史に興味がわいてくる、関ケ原はそんな町でした。
※家康さんを「さん」付けにしているのは、勝ったほうだからとか、ひいきにしているからではありません。
会って親しく会話をしたことがあるから、です。
石田三成公も、一緒に並んで歩いたり、並んで座ったりして、親しくあれこれお話をすれば、そこからは親しげに「三成さん」と呼んでも許してもらえると思いますが、高野山でもお返事がもらえなかったので、まだ「さん」付けをしてはいけないように思います。
本では伊達政宗とか武田信玄など、他の武将にも「さん」は付けていないです。
会って話をしたことがないからです。
親しく会話をするまでは、私にとってその方は歴史上の人物なので「さん」は付けていないのです。
ここは呼び捨てで書いてはいけないだろう、と思ったところは「さん」や「公」をつけていますが、つけていないところは歴史上の人物だと、〝私が〟認識しているためです。
武将には思い入れがおありになる方が多いので、難しいところですが、そのような考えがあって書いています。
勝ったほうが正義とはまったく思っておりませんので、どうかそこのところ誤解のございませんようお願い申し上げます。