前回、フェニックスの神様のお話を書いたところ、アリゾナ州在住の方からメッセージが届きました。 

 

その方は1年ちょっと前に、私が行ったあの丘の近くの山で遭難しかけたことがあったそうです。 

 

パニックになりかけた時に、心の中で神様に助けを求めた、とのことでした。 

 

すると、その後、不思議な出来事(神様の助けとしか思えない出来事です)が重なって、無事に帰ることができたそうです。 

 

あれは大地の神様が助けて下さったのだ、と気づかれたその方は、すぐにお礼に行かれました。 

 

私が記事をアップした数時間後にお礼のワインを持参して行かれ、素敵な経験をされています。 

 

大地の神様のことを書いて良かった〜、と心から思いました。 

 

神様にお礼を伝えることができて、良かったですね、と、とっても温かい気持ちになりました。 

 

大地の神様のほうも、きっと「おぉ〜、気づいてくれたか」と喜ばれたのではないかと思います。 

 

他にも海外にお住まいの方から何通かメッセージをいただきました。 

 

アメリカに赴任中の方からは、貴重な情報やご提案をいただきました。 

 

ありがとうございます。 

 

皆様のご親切や思いやり、楽しい体験、不思議なお話等、それらをたくさんいただけることを心から感謝しています。 

 

ネットにはネットの良い部分があって、世界中の方に同時に読んでもらえる、ということは奇跡のようだな、とそのように感じています。(海外の人とは国際電話やエアメールでしか連絡が取れなかった時代を知っているので、瞬時にメールが届くこともすごいと思います)

 

えーっと、またまた長い前置きになっていましました。

 

すみません。 

 

今回は、質問が多いお供え物について、ちょっと書きたいと思います。 

 

ブログや本に書いていますように、お供え物はフタを開けたり包みを破らないと神仏には届きません。 

 

ガバッと開けなくても、切れ目くらいで大丈夫なので、お供えする時は開けて差し上げたほうが親切です。 

 

お供えは5分もすれば……もっと短くて3分で片付けても問題ありません。 

 

そして、一番大切なことは、自分が持って行ったお供え物は〝必ず〟持って帰る、ということです。 

 

神仏の前に置いたものは、参拝者本人がそこにいる間はお供え物ですが、置いて帰ると〝ゴミ〟になります。 

 

神仏の前にゴミを置きっぱなしにしてはいけません。 

 

大変失礼な行為ですし、あとでそのゴミ(食べ物は腐敗しますし、飲み物は中を洗って資源ゴミに出さなければなりません)を誰か他人に片付けさせるわけですから、良くない行為と言えます。 

 

さて、ここで、皆様が悩まれるのは、他人が放置したお供え物をどうするか……だと思います。 

 

これは結論を言ってしまうと、正解がないのですね。 

 

皆様の心のままに……が正解なのです。 

 

私だったらどうするか、を書きますと、まず、食べ物や、フタが開いている飲み物で、明らかに腐っているものは、片付けます。 

 

神様に「お片付けしますね」とひとこと声をかけてから、片付けています。 

 

では、この場合、片付けなかったら神仏や眷属は怒るのでしょうか?

 

そんなことはありません。

 

いくら腐っていても、片付けなかったからといって、神様も眷属も怒ったりしません。 

 

置いていった人が違う人物である、ということを神仏はご存知だからです。 

 

片付けない人に罪はないのです。 

 

ゴミを入れる袋を持っていないとか、汚くて触るのがどうしてもイヤだとか、手が汚れたら洗う場所がないとか、理由はいろいろあると思いますが、理由に関係なく叱られることはないです。 

 

ですから、放置したまま去ることに責任を感じることはありません。 

 

神仏は、できたら片付けてほしいが……無理はしなくてもいいぞ、お前の考えでいい、そのままでもまったく構わない、というお考えです。 

 

片付けるか片付けないかは、人間の自由意思だからです。 

 

フタが開いていない飲み物や食べ物で、でも、どう見ても古いと思われるものも、私だったら片付けます。 

 

悩むのは、古くないお供え物の場合です。 

 

これが高い山の山頂のお社で、お供えした人がすでに下山していたら、片付けますが……難しいのは、街なかにあるお社です。 

 

一定時間が過ぎるとお供えした人が戻ってくる? という可能性がないこともないかな〜、と思うからです。(お下がりをいただくために、です) 

 

その可能性がなかったとして……たとえば、ほんの少し前にお供えしたらしいものは、〝神仏にとっては〟もうゴミになっていますが、人間界ではまだ食べられるわけですから、ここは悩みます。 

 

しかし、私は他人が放置したお供え物を口にする勇気はありません。 

 

ですので、リンゴなどの果物が置いてあって、まだ十分食べられそうなものは、そのままにしています。 

 

もしかしたら、私のあとに参拝した人がいただくかもしれないからです。 

 

「えっ? 私は、もしかしたら食べられていたかもしれないものを、片付けたことがあります、それは悪かったのでしょうか?」と、これを読んで悩まれる方がいらっしゃるかもしれません。 

 

そこは悩まなくても大丈夫です。 

 

神仏を感じる霊感で、神仏の意向をくみ取った結果の行動だからです。

 

神仏が、どうしても片付けてほしい! そこにいつまでも置かれているのはイヤなのだが……と思っても、神仏の考えをキャッチできない人には頼めませんし、キャッチできてもその人の意思が拒否すれば片付けてもらえません。 

 

神仏はご自分で捨てることができませんから、時間が経った食べ物や飲み物が目の前にあることが苦痛だったとしても、我慢するしかないのです。 

 

自分のことに置き換えて考えると、食べ残しの食器がいつまでも目の前に置かれたままだったら、イヤだなと思います。 

 

ですから、神仏の頼みを察知できる人が来ると、神仏はその人にお願いするわけです。

 

すまぬが、片付けてくれないか、と。 

 

お願いされた人はきっと、「あ、片付けなきゃ」とサラッと思って行動に移したのではないかと思います。 

 

結論として……これは片付けても、片付けなくても、自分の心のままに、でいいと思います。 

 

どちらが良いとか悪いとか、神様が怒るとか怒らないとかもないです。 

 

他人が置いたものを触りたくないと思う人は、放っておいてもまったく構いません。 

 

悪くなっているものがいつまでも神前にあるのはお気の毒だと思う人は、片付けて差し上げればいいと思います。

 (※これは、神職さんや住職さんのいない、無人のお社やお堂・祠などの場合です)