先日行った、熊野三社参りでのことを今日から続けて書こうと思います。
この三社参りは一般に言われているものではなく、私個人が好きな三社です。
玉置神社、熊野本宮大社、那智の滝にある飛瀧神社、です。
この3つの神社の神様は、知り合いというか、仲がいいというか、連携プレーで物事を教えてくれます。
なので、各神社にきっちり分けて書くのが難しく、入り混じっての説明になることがあります。
混乱しないよう頑張って書きますが、そういう感じの三社なのだな、と事前に知っておいていただくと理解しやすいかと思います。
まず、いつものように、夜遅く自宅を出て、ひたすら夜道を走り、午前3時に十津川郷の道の駅に到着しました。
そこで少し仮眠を取って、玉置神社に向かいます。
狭い山道を車で登り、玉置神社の駐車場に車を置いて、本殿まで約20分歩きます。
本殿に向かって歩きながら、神様にいろいろと話をするのですが、「そうか」と返事はしてくれるものの……なんだかいつもと違います。
いつもは手放しで可愛がってくれる雰囲気なのですが、なんかこう、冷静というかテンション低めなのです。
なんでだろう? と違和感を感じましたが、本殿に着いたので手を合わせました。
さて、祝詞を……と思ったら、なんと! 祝詞が出てきません。
ど忘れして、冒頭部分からひと言も、一文字すら、まったく出てこないのです。
こんなことは人生で初めてで、頭の中が真っ白の状態が真剣に怖かったです。
脳がヤバイのかもしれない、脳梗塞? とパニックになり、「神様、祝詞が出てきませんー」と半泣きで言った瞬間に思い出せて、スラスラと唱えることが出来ました。
うーん、なにか変だ、何かがおかしい……と思ったのですが、それでも深くは考えず、ふと目についたおみくじを引いてみることにしました。
するとそれには「(前半省略)神様は不浄をうけたまわぬ。神様につなぐ心の綱は、あくまで清くなければならぬ。清くなければ神様に通じない」と書いてありました。
( ゚ ▽ ゚ ;) ・・・・。
呆然としました。
どうやら、軽くお叱りを受けているようなのです。
でも、何をどう考えても心当たりがありません。
絶対に悪いことはしていないし、しようともしていないし、清くないことを考えているわけでもないし、何のことを言っているのか、サッパリわかりませんでした。
うーん、うーん、といろいろ考えましたが、本当に見当がつきません。
とりあえず、本殿から山頂に向かって歩きつつ、神様に「何のことかわからないです」と正直に言いました。
すると「心の奥底をよく見なさい」と言われました。
そこで、心の中を深く、深く、さぐり、探し回っていたら、わずかに引っかかるものがありました。
ちょっとここで、打ち明け話をしますと……
神様に注意された、私の個人的なことを、ブログでおおやけにするのは嫌だな、と、最初はこの記事を書くことに抵抗がありました。
ですが、この部分を書かないと、タイトルの内容がしっかり伝わらない……と思ったので、自分の人間性が未熟だと発表するようなものですが、思いきって書くことにしました。 (TωT)
わずかに「ん?」と、引っかかったのは、「私は最近、偉そうなのではないか?」ということでした。
ずーっと言い続けてきましたが、霊能力は誰にでもあるもので、ないと思っている人は、気づいていないか、やり方がわからないだけ、というのが私の持論です。
やり方やコツさえわかれば、私なんかよりも、もっと聞こえて、もっと見える人がいるはずです。
私はこういう体験をしました、こんな不思議なことがあったんです、と書くことで、見えない世界とはどういうものか、神仏に波長を合わせることの大切さがどれほどのものか、ということを理解してもらえればいいな、と思って始めたブログでした。
神仏についてわかる自分が特別だと思ったことはありません。
祖母の体質を受け継いだことはラッキーですが、コツコツと修行をし、あちこちの神社仏閣を巡り、菜食修行もし、いろんなことを経験して、何十年もかかって、私はここまできました。
だけど、コツさえわかれば、短期間でわかるようになる人もいると思います。
なので、本当に全然、特別意識は持っていないのです。
でも、わずかに引っかかったのは、つい先日、〝穢れの補足〟という記事で書いた文章です。
「神道では50日祭ということは知っていましたが、神様自身が49日と言えば、49日と書きます」という、これです。
自分で読んで、「なんか私、偉そうじゃない?」と思ったのでした。
神様自身が言った言葉は真実です。
私は、宗教の決められたルールや、決まりごとをブログに書きたいのではなく、神様が言ったその言葉、真実を伝えたいのです……と、そういう意味で書いた文章でした。
でも、もしかしたら、自分で引っかかるくらいなのだから、そこに偉そうな気持ちが入っていたかもしれない、と思いました。
いや……入っていたような気がする……。
そこに気づくと、玉置の神様は、「本人も気づいていなかった小さな芽だが、その芽は今のうちに摘み取っておかねばならん」と言いました。
その芽のイメージも一緒にくれたので、自分の心の中をかき分けてみると、奥の深〜い所に、たしかに小さな小さな、種から出たばかりの小さな芽がありました。(まだ土の中にいる芽でした)
それを、ブチ、とちぎって捨てます。
芽の下には根があるので、それも掘り起こして捨てました。
今後、二度とこのような種を持たない、芽を出さないように気をつける、ということを神様と約束しました。
すると、何だか冷たい感じだった神様が、パーッといつもの朗らかであたたかい、優しい神様になったのです。
神様は、表面だけでも普通にしとく、などという、真実から外れた行動は一切とりません。
すべてがストレートで、真っすぐですから、良くないと思っていればそのような雰囲気を出し、解決されればそれがそのまま伝わってきます。
よかった~、嫌われてなかった、と救われた気持ちになりました。
神様が言うには、その芽が大きくなって土から顔を出すと、優越感とか選民意識になるそうで、そこからどんどん芽が大きく育てば、人を見下したりするような人間になる、とのことでした。
神様は、そういう優越感や、私は特別といった選民意識を持った人間が嫌いなのだそうです。
「神が嫌うような人間になるなよ」と言われました。
他にどういう人が嫌いなのか聞くと、自分本位の人だと言います。
欲張りな人も、私さえ得をすればいい、私だけいっぱい持っていればいい、という自分本位であるし、
人に迷惑をかけて平気な人も、私さえ良ければいい、という自分本位なので、嫌いだということでした。
神様が嫌う芽が、まったく気づかないうちに出ていたことを、本当に恐ろしく思いました。
神様に「ここに一番に来てよかったです。滝の神様のところに先に行っていたら、また叱られるとこでした~」と言うと、
「あれはまっすぐ(性格が)だから」と、笑っていました。(滝の神様には、一回叱られたことがあるのです)
滝の神様のところには、このあとで行ったのですが、この件について、さらにアドバイスをもらいました。
滝の神様の前で「玉置の神様に嫌われたのかと思って、不安になりました」と報告すると
「そのような芽が出ていないか、自分で点検・確認しなければいかん」と言われました。
いつもいつも神が教えるわけではない、自分の心であるから、自分で芽が出ていないかしっかり監視しないといけない、芽が出て、それが伸びてしまったら、取り返しのつかないこともある、と滝の神様はアドバイスをくれました。
「邪(よこしま)な芽が出た者は、神の方から離れていくからの〜」と滝の神様は優しく言っていましたが、それって本気でものすごく怖い! と思いました。
心を正しく持つことが、いかに大事か、を徹底的に教えられた気がします。
話を玉置の神様に戻します。
その後、いろんなことを教えてもらい、時々神様は「ふぉっふぉっふぉっ」と笑ってくれて、楽しく参拝をさせてもらいました。
山頂でパワーを充電し、本殿へ降りてきたところで、二度と変な芽を出さないよう心のあり方に気をつけることを誓い、教えてもらえたことに感謝しました。
すると、「もう一回、みくじを引きなさい」と言います。
心すっきりしたあとの、二回目のおみくじには「神のめぐみの光の中に、生けるこの身のありがたさ。(中略)心の眼を開いて見よ、神様はそこに居られる。御恵みの御手はその肩にかかっている。御いつくしみの御光はそのからだをつつんで居る。有難いこと、尊いことである」と書かれていました。
読んでいる途中、実際に、神様が手を私の肩に置き、優しさの光で体を包んでくれているのがわかりました。
ありがた過ぎて、涙がポロポロこぼれました。
心が洗われて、まっさらになり、生まれ変わったような気持ちになりました。
あとで気づいたのですが、神様は芽のことを、神様からストレートに教えませんでした。
自分で気づくことが大切なのと、どうやってその芽を探すのか、そのやり方も教えたかったのだと思います。
それで、自分で見つけるよう仕向けてくれたのです。
神様の愛情は深くてありがたく、このご加護を失うようなことは決してしてはいけない! と改めて実感した玉置神社の参拝でした。
十津川郷の道の駅から見える景色です。朝早いので霧がかかっています。
駐車場から10分くらい歩くと、この鳥居があります。ここからさらに10分ほど歩きます。
古い神社なので、苔がいっぱいはえていて、石段も歪んでいます。
社務所の横を通って山頂に行きます。雪が残っていて驚きました。
お稲荷さんの社もあります。大昔は眷属でしたが、今は格上げになっているようです。