私がまだ宝くじの会社で働いていた時の話なので、ずいぶん昔になります。
アルバイトで入社してきた男の子がいました。
男の子といっても30歳くらいでしたが、人と話をする時に、意識してテンションを高くしてて、おかしくないところでも一生懸命笑い、何か頑張っている感じがする子でした。
ある時、その彼と2人で作業をしていたら、珍しく、非常に落ち着いた様子で私に話しかけてきました。
「僕ね、去年、結婚を考えていた彼女にふられたんですよ」
「そうやったんやね~、それはつらい体験をしたねぇ」と言うと、そこから彼は一部始終を一気に話しました。
前の職場で同僚だった彼女は、彼女の方から彼に、積極的にアプローチをしてきたそうです。
最初は何とも思わなかった彼も、だんだん彼女に惹かれていき、交際がスタートしました。
2年ほどは、とても順調で幸せだったそうです。
このまま結婚しても仲良くやっていけそう、彼女と結婚したいな、と彼は真剣に考えていました。
ですが、そのうち彼女が少しずつ距離を置くようになりました。
冷めた感じになっていき、ある日、いきなり別れたいと言い出したのです。
彼は、自分が何か悪いことをしたのか、自分に悪いところがあるのか、何でも言ってほしい、言ってくれたら全部直す、だから考え直してほしい、と食い下がりました。
彼女はそこで、実は・・・と告白しました。
なんと、彼女は、職場の後輩の男の子と彼を、二股にかけていたのでした。
そして、どっちも好きだから選べなくてつらかった、でも1人に決めないといけないと思ったから・・・と、後輩を選ぶことにした、と言うのです。
彼は、プライドを投げ捨てて、別れたくない、オレを選んでくれ、幸せにする、とすがりました。
でも結局、最終的に彼女は、その後輩を選んだのです。
彼は、いつか彼女が後輩と別れて自分の元に戻ってくるかもしれない、と会社を辞めずに半年間頑張りました。
彼女と後輩がいるその職場で働くのは、地獄の苦しみだったそうで、その半年間で精神的にボロボロになりました。
退職してからは、生きる気力もなく、気持ちも沈んだままで、人に会うことも出来なくなり、ずっと家にこもっていました。
もう生きていても苦しいだけだし、死のうかなぁ・・・と、どうしようもなくなった時、テレビで四国巡礼を知ったのです。
彼はすぐに、四国八十八ケ所巡りの旅に出ました。
歩いて回りました。
彼女への未練を断ち切るために、ひたすら無心で歩いたのです。
無事に結願したその時に、驚くほど心は晴れ晴れとしていました。
彼は巡礼の間に、いろんな不思議なことを体験しています。
日が暮れて焦っていると、「途中まで乗っていきなさい」と親切に車に乗せてくれたおじさんがいました。
そして、「今日の宿が決まってないのなら、うちに泊まるといいよ」と泊めてくれたのです。
おじさんの奥さんもすごくいい人で、話もはずみ、人と会話をして笑ったのは久しぶりでした。
本当に楽しかった、と彼は言っていました。
世の中にはこんなふうに人助けをする人がいるのか、と、
裏切りで傷ついていた彼の心に、その夫婦の優しさがあたたかくしみて、夜中に布団の中で泣きました。
足が痛い、もう歩けない、という状態になると必ずといっていいほど、「乗っていくか?」と声をかけてくれる人が現れ、
しんどさにくじけそうになると不思議な光が見えたり、
お寺で般若心経を唱えていると胸の部分がじんわりとあたたかくなって癒されたり、
いろんな不思議な出来事が起きました。
彼はこう言っていました。
「それまでは、神様とか仏様とか幽霊とかいるわけないって思っていたし、見えない世界はまったく信じていなかったんですよ。でも、僕ね、空海さんは信じれるんです。空海さんがいるんだから、見えない世界もいろいろあるのかもしれないって思うようになりました」
死ぬことまで考えた深い失恋の傷が、空海さんのおかげで癒えたのです。
何とか社会復帰しなければと、彼はとりあえずバイトから始めることにしたのでした。
「でも、なんかまだ、人と話す時は変に緊張するんですよ~」と言うので、
「今、そんなん全然感じないよ。もう大丈夫なんちゃう? 今の話、本当にいい話やね~」と言うと、嬉しそうに笑っていました。
彼は四国巡礼をして、「知識」としてではなく、「感覚」で空海さんを知り、空海さんの大ファンになったのです。
空海さんを信じる、ゆえに、見えない世界もあるのかもしれない、と視野が広くなったのでした。
当時の私は、まだ空海さんには興味がなかったので、四国巡礼ってごりやくがあるんだな、と思っただけでした。
今思うと、空海さん、すごいですね。
亡くなって千年以上たっていても、仏様になっても、こうして小さな布教を地道にしているのです。
悩み苦しむ人を救い、心が安らかになるよう信仰の種を植えています。
仏様とはなんとありがたいものなのか、としみじみ思います。
空海さんはこうしてみずから布教をしていますが、最澄さんは違う方法です。
私の祖父は、子供の頃に熱病にかかりました。
高熱が何日も何日も下がらず、病院の医師に「この子はもう助からない」とまで言われました。
「ここにいても治療は何も出来ないから、家に連れて帰ってあげなさい」
そう言われて家に戻った幼い祖父は、あとはもう死ぬのを待つばかり、という状態でした。
そこに、諸国を歩き回って修行をしているお坊さんが現れました。
そして驚くことに、「この村には死にかけている子がいるだろう?」と、言ったのです。
村の人が慌てて、この家の子です、とお坊さんを祖父の家まで連れてきました。
お坊さんは祖父の病を治すと、またすぐに修行の旅へ出ました。
お礼を・・・と家の者が言っても、泊まったり、金品を受け取ったりしませんでした。
祖父は、「じいちゃんは本当はあの時に死んじょった。この命は仏さんにもらったもんじゃから、恩返しせんにゃいかん。人のために命を使わんにゃいかんのじゃ」と、感謝していました。
お坊さんは天台宗ですから、最澄さんの連綿と続くお弟子さんの1人です。
最澄さんはこうして優秀なお弟子さんをたくさん育てています。
千年以上に渡って、多くの優秀なお弟子さんを育ててきたのは、全国津々浦々、日本の端から端まで、人々を救えるように、です。
空海さんと最澄さんは人間を思う気持ちが特別に強い仏様です。
ありがたいことだと、しみじみと思います。