神様は、神社の奥深くにじーっと座っていて動かない、神社の奥にいたまま、そこから魔法を使うような感じで、願いを叶える・・・

 

と、勘違いをされている方がおられると思いますが、実はそうではありません。

私の父は、私が生まれる前までは一等航海士として外国航路の大型船に乗っていました。

私が生まれた後、船を降りる決意をし、転職しました。

採用試験・面接を東京本社まで受けに行って帰ってきましたが、何日たってもなかなか結果が届きません。

難しい仕事だし、これは不採用ということなのでは・・・と父も母も諦めムードだったそうです。

その時に「どうなっているのか、神さんに聞いてみよう」と祖母が言いました。

そこで神様を祖母に降ろし、父は採用されるのかどうか、聞いたそうです。

すると神様は「では、ちょっと見てこよう」と言い、一瞬で東京まで行って、戻ってきました。

神様によると、採用は決定している、でも採用の書類が、他のいくつもの書類の下になっていて、担当者が気づいていない、もうじき気づくから、結果は安心して待てばよい、と言ったそうです。

そしてその言葉通り、1週間ほど待つと、採用の通知が来たそうです。

以前、記事にしましたが、太宰府天満宮の神様を勧請する時もそうです。

最初は、我が家の神棚にいた神様に同行してもらって、私たち家族は太宰府へ行きました。

 

うちに来てもらえるよう、我が家の神様から話をしてもらうためです。


たまたまその日は神無月で、太宰府天満宮の神様は出雲大社に行かれていて不在だったため勧請ができませんでした。

 

で、その後、祖父母の家にいた神様に、日を改めて太宰府へ行ってもらいました。

神様は、一瞬で広島から福岡まで行き、話をつけて、呼んで来てくれたのです。

ちゃんと〝行く〟のです。

神棚の奥深くにいたまま、テレパシーではるか遠くの太宰府天満宮の神様と交信するのではなく、行って、話をつけてくるのです。

私たちが受験祈願で、「合格しますように」とお願いすると、神様はその試験に一緒について行きます。

この場合は一瞬で行くのではなく、文字通り、その子にくっついて行きます。

そこで合格する段取りをするのです。

神棚の奥にいたまま、もしくは神社の奥に座ったまま、そこから合格する魔法をかけるわけではありません。

一緒に〝行く〟のですね。

神様が縁を与えた人、その人が事故に遭いそうな時や、緊急事態の時は、神様は現場に助けに〝行き〟ます。

助け終わったら、すぐにスッと一瞬でお帰りになります。

このように、神様という存在は、大変フットワークが軽いのです。

「願掛け」という記事でも書いたように、願いを叶える時も、まず一度、その人のところに行きます。

その場で叶えられる願いだったら、そこで叶えますが、受験などは試験日当日、もう一回来てくれて、試験会場まで一緒に行ってくれます。

これは、私の最初の結婚の時の話です。

新婚旅行へ行く飛行機は成田発でした。

新幹線で博多から東京まで行く途中、私は車内の洗面所でコンタクトレンズを入れていました。

そして洗う時にうっかり流してしまい、真っ青になりました。

当時は今ほど手軽に買えるものではなく、しかも、-9.00という強度近視用のハードレンズはどの眼科も在庫を置いていませんでした。

強度近視なので、眼鏡では視力が出せないため、レンズがなければほとんど見えません。

ほとんど見えない目で、外国に行くのは不安です。

その時に、心の底から「神様、助けて!!」とお願いをしました。

東京に着いて、駅を出ると、真ん前のビルの窓に ”○○コンタクト” と書かれています。(見えない私にはわかりませんでしたが、最初の夫が見つけました)

当時はネットもなく、東京の地理もまったくわからなかった私は、他の眼科を探すすべがありません。

藁にもすがる思いで、その眼科へ行きました。

すると、なんと! その眼科には私の使用していたメーカーの、まったく同じレンズが、しかも普通は発注すべき度数(当時)なのに、在庫があったのです。

「奇跡だ!」と思いました。

その時も、瞬時に神様が来てくれて、それから神様はひと足先に東京駅に行ったのだと思います。

神様は、駅に行った瞬間に、どこでそのレンズが売られているのかわかるので、そこへ私を導いてくれたのでした。(別の出口から出ていたらアウトでした)

このように何か緊急で困ったことが発生して、こちらから「助けて下さい!」とお願いした時も、神様は一瞬で〝来て〟くれます。(ご縁をいただいている場合です)

神社の中から「何だ? どうした?」と言うわけではありません。

ご縁がいただけていない神社の場合は、お守りを握りしめて、「助けて下さい!」と強い念を込めて言えば、神様はそのお守りを目印に助けに来てくれます。

神様というのは、このような感じで、神社のはるか奥にじっと座っているだけ、という存在ではないのです。