大正デモクラシーとは何か② | 時事刻々

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大正デモクラシーとは何か②

〜閉塞する政治〜



大正デモクラシーは、日露戦争が原因で、そもそも当時の日本は、そんな戦争するだけの国力はありませんでした。


日露戦争で国内経済がガタガタになり、不況どころではない、まさしく惨憺たる状態を晒しながらも、人々はなんとか頑張り通し、政府も「勝ちを勝ち取れるのは、今しかない」と、素早く交渉の席に着いたのです。



【人々の苦しみ】

日露戦争勃発2カ月後の明治37年4月には、第一次非常特別税を創設して地租を大幅に増やし、営業税や消費税を引き上げ、いくつもの新税を導入している。翌年1月にも非常特別税法を改正してさらなる増税をおこない、その総計は実に1億4000万円に達した。
 さらに政府は国内外からの公債で17億円にのぼる戦費を調達し、辛勝というかたちで一年7カ月にわたる戦いに決着をつけた。実際に要した費用は15億2000万円だったが、これは、日清戦争の7倍で国家予算の五年分にあたる額だった。
日露戦争の戦費の調達のため大増税がおこなわれましたが、所得税ではなく間接税が上がりました。
たばこや酒、砂糖といった、「都市雑業層」にとって仕事が終わった後の息抜きに不可欠なものに、税金がドーンとかかっていきました。
彼らには、自分たちが戦費を負担している気持ちがあったわけです。
ここまで増税されれば、国民生活がどうなるかは、分かりますね?
しかも、この暮らしを良くする為の賠償金は取れなかったのです。



【憲政の鼓動】


日露戦争前から、政権は藩閥と政党という二つの勢力が、妥協と抵抗を繰り返しながら桂太郎と西園寺公望が政権交代を行う、いわゆる桂園内閣時代を迎えていました。

こうした政治情勢の中から新しい民主政のあり方を模索する動きがますます活発になっていきました。その端緒となったのが、第二次西園寺公望内閣の総辞職です。

大正元年11月、陸軍大臣上原勇作は朝鮮への二個師団増設を閣議で要求しましたが、当時の首相西園寺公望は財政上の理由で拒否しました。

これを受けて上原は、直接、大正天皇嘉仁に上奏し、その支持を求めました。玉座の幕のなかへの上奏、つまり「帷幄上奏」をしたのです。


【帷幄上奏事件】


軍事事項のうち、軍事機密や作戦に関わる軍令のみが帷幄上奏をする事が許されており、その他軍事に関する行政に関しては、内閣の管轄であるため、陸・海軍両大臣は国務大臣の一員として、内閣総理大臣を通じて上奏すべきことが明言されています。

しかし、この取り決めは、実際には守られていなかったようです。

このように、陸軍大臣本人が軍政一般に関する師団増設問題を、統帥事項の一部として、帷幄上奏するという事件が発生しました。

上原は陸軍大臣の辞表を提出すると、陸軍は軍部大臣を現役武官に限るとする制度を逆手に取って、後任候補を出さずに対抗した為、内閣は止むなく総辞職するに至ってしまうのです。

軍部大臣を現役武官に限ると規定した人物こそ、長州閥の領袖、山縣有朋でした。

そして、この事件によって、軍部が政府や議会を軽視する風潮を生み出す事になりました。


【激突! 吉野作造 vs 軍部 】


こうした天皇を主権とする憲法解釈に基づき、富国強兵を推し進める閥族支配を理論的にくつがえそうとしたのが、吉野作造でした。

吉野が軍部を激しく批判したのもそのためでした。

大正11年2月、『東京朝日新聞』に連載された吉野の評論「所謂、帷幄上奏について」は、同年9月、『二重政府と帷幄上奏』として出版されました。

その中で吉野は、人民は「議会を通して間接に大臣の一切の行動を質問討論の対象とし得る」と述べ、このことが「現代憲政の諸原則」のうち、最も重要で根本的なことであると主張しています。

軍部が閣議にかけず、直接、天皇の玉座「帷幄」に上奏する行為は許されないとして論破したのです。