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ロザリオ・コンフラタニティ(ロザリオ大信心会)の17世紀の日本における活動をまとめました。ドミニコ会の記録(英語)をもとにしています。
(https://nominis.cef.fr/contenus/witnessesdominicainscanada.pdf)
(122頁~137頁 Microsoft Edgeで閲覧可能)

当時はとても多くのキリスト教徒がロザリオ・コンフラタニティに入会しており、また福者に列副された方々も多いです。資料をみていると彼らがいかに信仰を大切にしたのかも分かりました。残念ながら大迫害の時代を経てこの大信心会はあまり信徒には知られなくなったようです。

(なお会の恩恵と入会方法などはアメブロで掲載中の紹介ページをご参考ください。)


■ 17世紀の日本での活動
17世紀の日本においてロザリオ・コンフラタニティのメンバー達はドミニコ会のメンバーたちと力を合わせて自分たちの信仰の義務に献身していました。彼らは霊的な修練を通じてドミニコ会全体の霊的な恩恵を共にしていました。

日本の信者たちはひとたびコンフラタニティのメンバーになると自分たちをドミニコ会の家族の一員としてみなした。また、ドミニコ会のメンバーたちもそうみなしました。彼らは日本の宣教師たちに宿と他のすべての必要なものを提供しました。そして、自分と自分の家族たちの命さえも危険に委ねました。

ドミニコ会の歴史学者たちは聖職者、教師、宿屋の主人、そして他の後援者としてドミニコ会のメンバーとなった者たち以外にも幾万もの日本人のキリスト者がロザリオ・コンフラタニティに入会していたことを伝えています。ロザリオ・コンフラタニティの大多数のメンバーについては知られていませんが、数名の名前は知られています。ドミニコ会士の主要な宿主だったか彼らと何らかの繋がりがあった者たちです。彼らのほとんどは殉教しました。日本のドミニコ会殉教者の一覧に掲載してあります。

ロザリオ・コンフラタニティのメンバーたちは、他のキリスト者を励まし、助け合い、牢獄に捕まっている者たちの訪問をしました。フランシスコ村山神父は、アントニオ村山等安という長崎代官の2人目の息子でした。彼は、迫害のなかメンバーたちに宣教者たちを見えないように隠すよう計らいました。1615年の春、彼は大阪に赴きました。その間、ナバレテ神父がすべての責任を引き受けました。フランシスコ村山神父は、大阪城の防衛にあたっていたキリスト者の兵士たちを助けに行き、城の近くで殺されました。その後の1615年の夏、ナバレテ神父が地方の司教代理となりました。コンフラタニティのメンバーたちは、純白の制服、前にドミニコ会の紋章と縁飾りとしてロザリオがついた手首までの黒い上着を身につけていました。



■ 殉教者たち
以下が1867年7月7日に福者に列福されたロザリオ・コンフラタニティのメンバーたちです。日本の殉教者たちを掲載しました。多くが日本205名の殉教者として知られています。

○ アンドレス村山徳安 (1619年殉教)
モラレス神父を匿いました。

○ コスメ竹屋 (1619年殉教)
韓国人でドミニコ会のオルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父を匿いました。

○ ジョン・ショウザエモン・ショウン (1619年殉教)
メナ神父を手厚くもてなしました。

○ トマス籠手田きゅうに (1619年殉教)
彼は平戸の著名な籠手田家の出身でした。アンドレス村山徳安と同じ通りに住んでいてモラレス神父を通報しなかったため1619年11月27日に斬首されました。

○ アントニオ木村 (1619年殉教)
彼は長崎の役人・末次平蔵の親戚でした。コスメ竹屋と同じ通りに住んでいました。1619年11月27日、オルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父の通報をしなかったため24歳の若さで斬首されました。

○ ミゲル竹下 (1619年殉教)
アントニオ木村の隣人でした。役人たちに宣教師たちについて知らせなかったため、1619年11月27日、27歳のときにアントニオとともに斬首されました。

○ レオン中西 (1619年殉教)
前述した者たちと同じ通りに住んでいました。彼らのようにオルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父を匿いました。1619年11月27日、27歳のときに木村と竹下とともに斬首されました。

○ パブロ永石 (1622年殉教)
ドミニコ会メンバーたちに奉仕していた伝道師たちの最長年齢でした。1622年9月10日に殉教しました。

○ バルトロメ関 (1619年殉教)
オルスッチ神父とサント・ドミンゴ神父が隠れていた通りに住んでいました。彼らを通報しなかったため1619年11月27日に斬首されました。
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○ ジョアン岩永 (1619年殉教)
バルトロメ関と同じ日に同じ理由により斬首されました。

○ アレホ中村 (1619年殉教)
関と岩永と同じ理由で斬首されました。

○ マチアス小坂 (1619年殉教)
メナ神父が隠れいてた通りに住んでいました。
通報しなかったため1619年11月27日に斬首されました。

○ ラモン松岡みよたろ (1619年殉教)
小坂と同じ日に同じ理由で斬首されました。

○ マチアス中野みよたろ (1619年殉教)
メナ神父を匿ったため上記メンバーたちとともに斬首されました。

○ ジョアン本山 (1619年殉教)
メナ神父を匿ったため上記メンバーたちとともに斬首されました。

○ ガスパル上田彦次郎とアンドレス吉田 (1617年殉教)
2人は捕らえられ1617年10月1日に斬首されました。彼らはナバレテ神父とアヤラ神父の宿主をしました。

○ シモン清田木斎 (1620年殉教)
シモンはイエズス会の神父たちとともに伝道師をしていました。そしてオルファネル神父とルエダ神父の宿主でした。1620年8月16日、シモン、妻のマグダレナ、従僕トマス源五郎と妻マリア、息子のサンチャゴは大分の小倉で殉教しました。彼らはみなロザリオ・コンフラタニティのメンバーでした。

○ ホアキム・ディアス平山常陳 (1622年殉教)
ホアキムは、1620年8月4日にズニガ神父とフロレス神父を日本へ渡航させた船の船長でした。ドミニコ会士たちの日本渡航を手助けしたため死刑となりました。長崎で1622年8月19日に上記の2人の宣教者たちとともに火で生きながら焼かれて死にしました。殉教の前に彼の目の前で協力者だったら12人の乗組員も斬首されました。すべての乗組員も船長と同じくロザリオ・コンフラタニティのメンバーでした。彼らはみんな列副されました。彼らの名前は以下となります。

レオン助右衛門(船の甲板長)、ジョアン宮崎宗右衛門(船上の公証人)、ミゲル・ディアス(船員)、マルコス竹之島新右衛門(船員)、トマス小柳(船員)、アントニオ浜田(船員)、サンチャゴ松尾でんし(船員)、ロレンソ六右衛門(船員)、パブロ三吉(船員)、ファンやご庄衛門(船員)、バルトロメ茂兵衛(船員)、ファン永田又吉(船員)。

○ ルシア・デ・フレイタス (1622年殉教)
ルシアは、ポルトガル人フェリペ・デ・フレイタスの妻でした。その時、夫は日本にいませんでした。彼女は長崎でロザリオ・コンフラタニティの財務係をしていました。また、熱心なフランシスコ会第三会員でした。宣教者たち、特にフランシスコ会宣教師たちの宿主をよくしていたので告発され、逮捕され、生きたまま火刑に処されました。

○ アントニオ三箇 (1622年殉教)
アントニオは、イエズス会の伝道士でしたがキリスト教徒であることを告白し、火刑に処されました。彼は、棄教したという噂を打ち消すために公に信仰を告白しました。妻のマグダレナもキリスト教徒でロザリオ・コンフラタニティのメンバーでした。そのため彼女も彼の目の前で斬首されました。

○ アントニオ「高麗人」 (1622年殉教)
「高麗人」と呼ばれていたアントニオは、イエズス会の熱心な支持者でした。セバスチャン木村神父が彼の家に隠れていたときもありました。アントニオは勇敢に宣教者たちに宿を供給すると宣言していました。また、当時のドミニコ会の地方の司教代理だったカステレット神父のリクエストによりドミニコ会士たちをの宿主を務めました。アントニオの妻ドミンガもロザリオ・コンフラタニティのメンバーでした。彼女と彼らの2人の息子たち(フアン12才とペドロ3才)は、アントニオの目の前で斬首されました。その後、彼も火刑に処されました。

他には列副されなかった殉教者たちもドミニコ会の記録には掲載されております。