永平寺の3泊4日の参禅研修に参加して
一番過酷と言われている研修2日目に感じた苦しみを振り返り
その苦しみの意味を考えてみました。
前回のブログで書いた通り
2日目の坐禅は40分間を6回坐る内容でして、
結跏趺坐(両足を膝の上に置く)で挑んでいたので
その日の3回目からは、
膝の痛みがピークに達しておりました。
不思議なんですが、
この膝の痛みは、周期性で痛みの強弱が違うのです。
なので、途中で痛くなっても
姿勢を意識してほんの数ミリ身体の軸をずらしたり
意識的に
深くゆっくり呼吸をすることで
痛みが感じなくなったりします。
この微妙な動きを感じるために必要な状況は
ある程度の暗さと静けさ
そして、その空間に動きが無いことです。
ガサガサと、落ち着かない状況では
なかなか感じることができません。
そして、もう一つ大切なことは
他の人も同じように
動かずにいる空間が必要です。
この時ほど
同じ目的の人と切磋琢磨する
重要性を感じたことはありません。
仮に、暗く静かな場所に独りで坐っていたら
足を組み替えたり、大きく身体を動かしたりする
欲求に負けてしまいます。
しかし、20人が同じ空間で同じ姿勢で
身動き一つしない張り詰めた空気の中では
呼吸の音やつばを飲み込む音でさえ響きます。
自分を観察するうえで
この荘厳な雰囲気の中と
日常的に毎朝行っている
カフェでの呼吸法の違いを考えてみますと、
自分を外部の何かとの対比で観察するか
自分自身の中から湧いてくる痛みや不安や安堵感を
対比無しに気付くか。の違いがあります。
どちらが良い悪いではありません。
永平寺に限らず
「僧堂」や「本堂」などの
暗さ(光)、静けさ(音)、
そして、空気の動きもない状況
外部からの刺激を遮断することができれば
自分の中から湧き上がってくる
感情、感覚だけが意識の対象となります。
この状況で脚の痛みを感じるとどうなるか?
痛みは、微妙でして
5分や10分は我慢できる痛みなので
結局、最後まで坐り続けることができるのですが
その痛みを感じているときに湧き上がる感情は
「恐怖」なんですね。
その恐怖とは、
このまま坐り続けたら脚が壊れるのではないか?
痛みそのものよりも
先の見えない未来に対する恐怖なんですね。
私の場合、
今回のような荒行をして脚が痛みだすのは
坐り始めてから30分を過ぎたころです。
なので、10分ほど我慢すれば
坐禅は終了するのですが
その10分間に湧いてくる「恐怖」をいかに受け流すか。
そんな楽しみを感じながら坐っております。
しかし、残念なことに
余程の無理をしない限り
恐怖を感じるほどの脚の痛みを感じなくなってしまったのが
少々残念です。(^^)/
このように
今回、永平寺の参禅研修に参加することで
周りの環境の変化によって感じる自分ではなく
自分の芯から湧いてくる変化によって
自分を観察する術に気付けたのが収穫でした。
自然を感じる環境で自分を見つめるもよし、
雑踏の中で自分をみつめるもよし、
外部の刺激をすべて遮断して自分をみつめるもよし、
そこで観えた自分は、どれも本当の自分ではないでしょうか。
本当に素晴らしい経験ができたので
少々、逆ホームシックにかかっております。(笑)
今度は、雪が深々と降る季節に上山したいと思っております。
≪#1329≫
永平寺 参禅紀行
前段
【自覚の幅を広げる旅】
https://ameblo.jp/holst-jsbach/entry-12486371399.html
第一話
【意外な一期一会】
https://ameblo.jp/holst-jsbach/entry-12487699339.html
第二話
【想像外の充実感を味わう】
https://ameblo.jp/holst-jsbach/entry-12489560153.html
第三話
【自分を観察すること①】
https://ameblo.jp/holst-jsbach/entry-12490520025.html
~~お知らせ~~
ブログタイトルの
『高坂勉強会』は
巷で言われている
心身が健康になる方法を
自分の身体を使って
あれや、これや、試すための勉強会です。
~~編集後記~~
今日も、ありがとうございます。
永平寺から帰還してから
体調がすこぶる良い高坂一彦です。
身体にとって一番の健康法は
食べ過ぎないことだと実感できた今回の旅でした。
もちろん、菜食も体に良いのでしょうが
肉を食べても、嗜好品を食べても
節度をもってさえいれば
ある程度の健康はキープできそうです。
高坂一彦 拝
