今回は、家族と仕事から離れて1か月間籠っての
我流の修行しておりました。
修行ではありますが
知識を得る必要があるトキ、
偉い人の教えを乞いたいと思ったトキは
ネット検索で多くの情報を収集して
自分を見つめて、向き合い、
そこから生まれた新しい考えや、
発見したコトなどを
書き留める手段として
パソコンを使っております。
本当は、知識や教えを得るの書物は紙の本で
何かを書き留めるのは
これまた、紙に筆が修行には
しっくりくるのでしょう。
そもそも、修行する場所は
山の中だったり、
空海のように海辺の洞窟中など
一般的に生活できる環境でないところに
身を置くから修行なんでしょうけど
時代が移り変わったということで
ご容赦いただきたいと
だれに許しを乞うていいやら。
それなのに、着るものだけは
昔ながらのリアルな格好を求めているので
思考はデジタル
身なりはアナログ
そして、座禅などの行(ぎょう)は、
ただ行動するのみ。
でも、これはどの分野でも
理想の形なのでは。。。
と、思えるのですが、いかがでしょうか。
なぜ、デジタルの話になったかというと
実は、、、
今、このパソコンは「zoom」という
ネット回線を使った映像配信で
東京飯田橋にある講座会場に繋がっていて
その講座に参加しております。
従って、イヤホーンで
講師の先生の声を聴きながら
このブログを書いております。
こちらの映像も
講座会場にあるパソコンにも送られていて
講師の先生は、
私の顔も確認しながら講座を進められています。
最近始めた試みなので、
いろいろ機能を確認する意味で
チャット機能で
講師の先生とやり取りする場面もありまして(汗)
もし、相手が講師の先生でなく
高僧(位の高い僧侶)であれば
ネット回線が繋がる場所であれば
どこで坐禅を組む修行をしていても
公案という、禅問答のようなコトも
ありがたい説法も教えも授かることができるので
今回の私のように
1か月間、仕事と家族から離れなくても
毎日の行(ぎょう)は、
行える(おこなえる)かもしれません。
もちろん、恵まれない環境の方が
自分の中の自分と絶えず向き合うことになるので
今まで、気づかなかった自分を発見できるコトを
今回の経験で身に染みております。
デジタルは、情報収集する方法の一つとしては
とても便利ですが、
その情報が腑に落ちる為には
アナログ的に地道に坐り続けるしかありません。
結論的に言うと
みんながみんな出家できるワケではない中
それでも、苦痛や不幸から救われたいと思う人を
救済するためには、ありがたい説法などは
デジタル手段を使って
多くのヒトに広めたほうが
人のためであるような気がします。
個人的には、その場所にいるからこその
気づきがあると思っているのですが
考えてみれば、スポーツ中継など
テレビで観戦するのは
多くのヒトは違和感なく、
観戦に熱中されているので
法話やありがたい説教も
こころに届くのではないでしょうか。
なんてことを考えながら
飯田橋で汗を流す講師のありがたい講義を
自宅でコーヒーを飲みながら聴いております。
≪#0944≫
~~編集後記~~
今日も、ありがとうございます。
知識を得るコトと同じくらい
無心で何かに没頭して行動するコトが
止められない高坂一彦です。
ある意味中毒性がある
同じ行動の繰り返しがあります。
例えば、英単語を覚えるときに
学生の頃は、ひたすら書き続けました。
苦痛ではなく、脳内で快感(快楽)にかわり
止められなくなるのですが
この快楽依存症的な意味と、
もう一つ別の理由がありまして
それは「怯え」からくるものがあるようです。
今回、自分と向かい合い
かなりの「怯え」を、発見しました。
整理ができたらブログで書きたいと思います。
高坂一彦 拝
