日本語の絵画性、情動性、多義性について | 異文化交差点

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長年、数十カ国を遍歴した経験を生かして、日本人には日本語と英語、米人には英語を使って異文化研修を日本語と英語で提供しています。

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 以下の文章は2009年10月17日と18日に4稿に分けて別のブログに投稿したものを一つにまとめたものです。

 

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 日本人は、言葉を絵画的、情動的そして多義的に活用して行く性質を持っているようです。どうしてそうなってしまったのか。それを徹底的に追究して来た言語研究者がいます。私が特に惚れ込んでいるのは以下の三人です。

 大野晋:昨年他界
 荒木博之:既に他界
 鈴木孝夫:現役で活躍中

 私はこのお三方と連絡を取り、お話もさせて頂いたことがあります。

 彼らが著した本を合計30冊ほど所持し、それらを全て精読しました。彼らの言語と文化に対する真摯な研究態度に圧倒されています。その研究のお陰で、私が海外で経験して来たことを体系化することができました。ある意味彼らの研究成果が僕の海外体験事実を体系化するための理論的道具となったと言えます。感謝の気持ちで一杯です。

 同時に言えるのは、彼らの研究成果は、もし私が海外で経営の苦労をしなかったら、理解が困難であっただろうという事です。

 私がなぜ日本語にかくも執着して研究して来たか。海外に居たのだから英語に執着して当然です。普通の人はそう思うでしょう。もちろん、私も海外体験の最初の頃は、英語に磨きを掛けるために必死で、それこそ生爪を剥がすような苦痛を伴って英語を勉強しました。

 しかし、それよりも苦痛で難解だったのが、日本人同士の意思疎通のあり方、そして、彼らの日本語の運用のあり方なんです。日本人同士が会議する時、断定的な表現が少なく、会議ではなんとなく何かが論ぜられ、大まかな意見の理解が出来たと思い込み、その通りに実行している中に、「俺はそんなことは言ってない」、「言われた事にこだわらず、もっと融通を効かせて、臨機応変に対応しなきゃ」、「そんなこと言わなきゃ分からないのか」、などと上司からどなられ叱られたりしたものです。

 その度に、私は、「日本人にとって日本語って一体何なのだろう。ひょっとして言葉をあまり重要な意思疎通の手段として見做していないのではないだろうか。もしそうだとしたら、なぜなんだ」、と深く考え、そして悩みました。

 

 日本から海外に派遣されて、子会社を設立しそれを運営するのは至難の業です。しかもそれが電子部品製造と来ています。単にモノの売り買いではありません。製造は、労務管理、生産管理、品質管理、原価計算を含む経理だけでなく、製造したモノを売る活動、すなわちマーケティングと販売までの一貫した経営管理が求められます。それが海外ですから、もろに国際経営管理となります。

 

 私は、27歳の時に日本の中堅電子部品製造会社からシンガポールに派遣され、工場を設立して、電子部品製造経営管理の仕事に従事しました。そのお陰で、異文化経営管理の全工程の実務的知識を得ることができました。

 世にMBA(経営管理修士)なるものが跳梁跋扈しています。

 この前、ある女性の経営者と話していた時、MBAを持っていた大手コンサルティング会社の若い社員が、彼女に対して国際経営に関する助言を提供して、非常に危ういと思った、と私に仰いました。その理由は、海外で実際に経営に関与した事がなく、単に、米国の大学院で修士号を取っただけで、コンサルティングが提供できると思い込んでいるが、実際は、ほとんどが本から学んだ事で、現場では役に立たない。MBAは幻覚剤となんら変わらない、と断言されていました。

 かく言う私もMBAは持っていませんが、持つ必要性を感じません。日本における中小企業診断士の方がMBAよりも遥かに優れていると思っていますが、こういった資格も実際の国際経営には、「帯に短く襷に長し」の観が否めません。つまり役立たずという事です。

 なぜか、それは、経営は人が行い、そこに人の心理が人の行動、言動に影響を与え、そして、なおかつ、文化によりその影響の仕方が全く異なり、それがどのように異なるか、皆目見当がつかないからです。特に大変なのが、言語運用方法が文化により大きく異なってしまう、ということにあり、教育機関では、それを経営に絡ませて教えることはできません。だから、そういう複雑な異文化心理というものを排除した架空の、つまり、机上の空理空論がMBAである、と私は思っています。

 閑話休題
 

 日本人同士の意思疎通において、先にも述べましたが、どうも日本人は言語なるものを人の意思や感情を正しく相手に伝える道具として活用していないのではないか、と思ったのです。では、どうやって経営するのでしょうか。言葉に頼らずに、意思が人に伝えらるのか、この事について私は非常に悩みました。(こんな事は、MBAでは習いません。)

 シンガポールの子会社の経営基盤が確立した頃、私は、現地幹部社員に日本語を教える事にしました。優秀な社員達は、日本語がみるみるうちに上達して来ました。教え始めて3カ月経った頃、一人の幹部社員から「『は』と『が』の助詞の使い分けが出来ずに困っているので、それについて理論的に教えて欲しい」と頼まれました。その時、私は、即答する事が出来ず、次回まで待ってくれ、と逆に頼み込みました。

 そして、シンガポール市内の日本書籍店(矢島屋)に行き、3~4時間ほど店内を歩き回り、ようやく見つけたのが、大野晋著「日本語について」(角川文庫)でした。日本語文法の教科書は「は」と「が」についてなんら納得行く説明がなく、大野晋の本からは、私の目から鱗がばさばさと落ちる程の衝撃を受けました。

 その本が擦り切れてぼろぼろになるまで読みました。それで私は分かりました。「俺には日本語を外国人に教える資格はない。なぜなら、俺自身、日本語が分かっていないからだ」。だから、私は、現地社員に日本語を教える事を止めました。

 その本が私に教えてくれたのは、単に助詞だけにとどまらず、日本人の言語文化のあり方でした。特に強烈だったのは、日本人が意思や感情を明確に言葉で表現したがらない、という事でした。なぜか、という事を歴史的に説明していたのが、その本だったのです。(ところでこの本は既に絶版です。私は、大野晋先生と直接お会いし、この本を持参し、それに大野先生の署名を頂戴しました。この本は私の宝です)
 

 その本を読んで良く分かった事は、日本語の背景に存在する日本独特の文化の姿でした。私は、それまで日本文化がどのようなものであったのか、知りませんでした。いや、知ろうともしていませんでした。

 その本によると、日本人は自然現象に出来るだけ人の手を入れずに、可能な限りあるがままにしようとするのです。例えば、木目を生かした日本建築、魚の生き作り、庭園の灯篭に生える苔、人の手が掛っていないかのような工夫をさりげなくする。そのような日本人の習慣は、言語にも表れている。何かと言えば、言葉を高度に抽象化したがらない。

 言い換えると、言葉の概念化が高度に進まない、という事にあります。これも日本人が自然にあまり手を入れたがらない事と類似しています。日本人は自然を敵対する存在ではなく、人と一体化した存在としてみなしているようです。いわば、自然の一部が人間であると捉えているからこそ、自然をあまりいじりまわしたくないと考えられます。

 言葉もそうです。あまりいじりたくないのです。概念化が進まないという事は、自然現象や人の営みを抽象的に捉えずにあるがままに捉えたがります。すると、言葉が絵画性を帯びます。やまと言葉の「けなげ」や「いじらしい」を日本人が言葉として発し、聞く時、その日本人は、頭の中に、例えば「おしん」が置かれている一つの情景を思い浮かべます。絵画的にその言葉を捉えるのです。

 絵画を言葉で説明するのは困難です。なぜならば無数の言葉が必要となるからです。従って、絵画的な言語は多義的となります。さらに、「おしん」を思い浮かべる時、その人の情感に「けなげ」と「いじらしい」が影響を与えています。だから、やまと言葉は、情動的です。

 この三要素、すなわち、絵画的、多義的、情動的がやまと言葉に存在しています。それは、日本人の文化が言語の底流に存在し、言語に影響を与えているからです。

 

 先に引用した荒木博之氏は、彼の著『日本語が見えると英語も見える』(中公新書)の中で、「けなげ」と「いじらしい」に関して見事な分析をしています。それを簡単にまとめますと、「けなげ」と「いじらしい」の二つの言葉に共通するのは、弱小性、逆境性、忍耐性、そして勤勉性の4要素です。日本人が「けなげ」と言う時、4要素を含んだ上で、相手を誉めています。「いじらしい」と言う時、4要素を含んだ上で、相手に同情しています。これほど絵画的、情動的、そして多義的な言葉、それがやまと言葉である、と荒木氏はその本の中で述べています。

 

 私はこの説明に接し、体の中を電流が走ったように感じました。 

 

 日本人が日本語を解釈の余地をたくさん残した形で活用したがるのは、基本的に日本人が絵画的印象を交換しながら意思疎通をしている事に他なりません。日本人は人の理性ではなく感性に訴えようとします。やまと言葉の情動性がそれに該当します。方や、英語人は相手の理性に訴えようとします。だから、言葉を一義的に活用したがります。

 ここにおいて、日本人と英語人の意思疎通の方法の差異を優劣の観点から見ない事が重要です。これを私は異文化研修の中で、参加者に力説します。それぞれの特徴をあるがままに認識し、それに優劣の差異を見出さないことです。

 

 日本人がなぜ言い切りや断定的な物言いをしたがらないのか。それは、言葉を高度に概念化せずに、できるだけ自然に近い形で、物事を表現したいからです。それは、日本人は日本語を絵画的、情動的、多義的に使いたがる文化的性癖を持っているからです。