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よろしくお願いいたます。
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先日から 続いております


上ふたつは アメンバー記事です


すみませぬ。。
今まで あまり 記事にはしてこなかった 精神的な
自分の在り方のチョイス
なかなか 視点を自分のエゴと切り離せない人は とても
多いこと 理解しております
どういうことかって いうと
人は 通常 「自分が正しい」と 思っている または 思いたい
そこに ゆるぎない自信がないと 「自分とは意見の違う 誰かの正しさ」に
出会うと 反感をもってしまうのだな そうすると
どうしても 相手に 自分の正しさを振りかざしてしまうのだね
自分が正しいということを 誰かにも 肯定してもらわなければ
または 相手の正しさは間違っていたのだ と 確認しなければ
安心できないという 自信のなさが 自分の正しさに しがみつくのだよ
こういう人は 自信なさそうには 見えませぬ
どちらかというと 自信満々 『私は正しいオーラ』満載だなぁ

存在するすべてに ふたつの顔があると思っていたほうがいい
時に ふたつだけでもないでしょうな
どこから見るかによって 物事は 多くの見え方で 違うものになる
どこから見た その姿も 正しいんだよ
一面的な 見方から 総体的な見方に シフトするには
いままでの 自分のとらわれた見方を 手放さなくちゃならないの
自分の見る視点を 離れない限り 違う見え方は できにくい
言うのは 簡単だけど これは とっても 難しい・・・
どうしたらいいのだろうね

違う見方をする人を たくさん 知ることかな
違う正しさを持つ 相手に反感を 持つのではなく 興味を持ってみるのだよ
どの立場で どの背景で見れば そういうものの見方になるのか
考察してみる
それが 相手を理解し 受け入れ、 物事を 1局面からだけでなく
一歩下がった 全体を見るということができるようになる 第一歩
一歩ずつ 進んで行くと いつの間にか どんな「正しさ」に
であっても ネガティブな感情は 一切わかなくなるんだよ
学びの場にはなっても 嫌な思いをする場では なくなるの
この手の話は 面倒だよなぁ 面白くないかも

この話を 続ける前に 私の好きな 老子

美しいものは、実は汚いものがあるから美しいと呼ばれる
善いものは、実は善くないものがあるから善いと呼ばれる
ものが存在するのは存在しないからだし
混乱があるのは単純があるからだ
低いがなければ高いもない
寂がなければ騒もない
"ある"は"ない"に依存し
現在は過去があるから存在する
だから、道を知る人は
あくせくと事をせずになしとげる
言葉を言わずに伝える
すべてを持って、しかもひとつである
なにも生まず、なにも持たず
生をいとなむ
成功を求めない
求めるものがないから
なくすこともない
老子『道徳経』第二節
これは かなりの意訳で 普通の人が分かりやすいように
してあるものなので かなり 読み手によっては 捉え方が
変わってしまうかもしれませぬが 一番最後に よく知られている
意訳もつけておきますね
一度も 老子なんて読んだこともないし 小難しそうで興味もない
という方には この 意訳中の意訳 しかも文庫本 オススメです
タオ―老子 (ちくま文庫)/筑摩書房

¥672
Amazon.co.jp
そう こういう 古い哲学書は やはり 読み手 訳者によって
たくさんの とられ方が存在するとも 思っています
みなさんは ここから 何を 感じるかな
興味のある方は 読んでみるといいよ
本当に 自分がハッピーでいれる 多くのヒントが
たくさん詰まっている 私の人生辞書みたいなものです
天下の美、美たるを知るも其れ悪也、
天下の醜、醜たるを知るも其れ最悪也
天下の善、善たるを知るも其れ不善也
ほんとなら こんな感じで 続いていきますが ここでは
みなさんには あまり必要ないかな っと
「世界人々は、だれでも美しいものを美しいとわきまえているが、実はそれは醜いものなのだ。
だれでも善いことをして善いとしてわきまえているが、実はそれは善くないことなのだ。
世間でいう善とか美とかいうものは、みな確かなものではなく、それにとらわれるのは間違っている。
まこと、有ると無いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、互いに相手があってこそ成り立ち、長いと短いとも、互いに相手があることによってはっきりし、高いと低いとも、互いに相手があることによって傾斜ができ、楽器の音色と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、互いに相手によって順序づけられている。
世間のものごとはすべて相対的で依存しあった関係にあるのだ。
それゆえ、「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値にとらわれて、あくせくとことさらなしわざをするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである。
すなわち、万物が活発に動いても、聖人はそれについてとかくの説明を加えず、ものを生み出しても、それを自分のものとはせず、大きな仕事をしても、それに頼ることはしない。
りっぱな成果があがっても、その栄光に居座ることがない。
そもそもその栄光に居座らないからこそ、またその栄光から離れることもないのだ。」
かなり このシリーズ 堅くなってきたなぁ

まだ 続きますっ


チャ
