2024.5.2

旅行7日目 No.3 マクロードガンジ泊

 
 
ランチを食べて、14時からチベットミュージアムに再入館。
午前中のチケットを見せたら入れてくれたよ。
 
 
重い内容が続く・・・
『中共・チベット17か条協定』について
 
『中国とチベットの当局者の会談は交渉の場であるべきだったが、話し合いのために提示された文書は最後通牒にすぎず、
中国の利益のために中国当局者によって書かれたものだった。
17項目の合意で、中国は私たちに内政の統制を約束し、私たちの宗教と文化を尊重し、
ダライ・ラマとパンチェン・ラマの権力と地位を守ることを約束したが、中国は自らの合意を守らなかった。』
 
 
人民解放軍のチベット侵攻のルートマップ
 
チベット内での文化大革命について。
1966年から始まった文化大革命では、10年の間にチベットの文化や伝統が破壊された。
6千以上の僧院が破壊され、貴重な彫像や宗教的な美術品は略奪・売却された。
僧侶・尼僧の多くが強制的に俗人へと戻され、120万人以上のチベット人が殺害された。
 
 
『誰かが賞を受賞すると、賞品や賞状の代わりに赤本(毛沢東語録)が、結婚祝いや卒業祝いにも赤本が贈られた。』
 
『赤本を持っていることで、チベット人は文化大革命を生き延びることが出来た。
兵士たちは、チベット人が赤本を携帯しているか、そこから引用できるかどうか定期的にチェックした。』
 
『反動的なガワン・ギャツォは排除されるべきだ』と胸に書かれて行進させられる、
セラ僧院のガワン・ギャツォ・リンポチェ。
 
紅衛兵によってジョカン寺の屋根から吊るされた、毛沢東の肖像画。


1987年にワシントンでダライ・ラマ14世が演説をした後、チベット全土で抗議活動が勃発。
1988年、ラサでの抗議活動中に中国警察に撃たれたオランダ人旅行者が、当時の様子を証言しているビデオがあった。
 
 
お寺に逃げ込んで石を投げて抗議する僧侶たち。
中国警察がお寺に突入して、逃げ惑う僧侶たちを殴り倒している。
 
有名な写真らしい
 
1959年に逮捕され、33年間中国の刑務所と労働収容所で過ごした僧侶、パルデン・ギャツォ。
1992年に釈放された後亡命した。
 

かなり前にこの人の伝記を読んだことがあるけど、辛い辛い内容だった。

 

北京オリンピック開催で、世界が中国に注目していた2008年3月、

ラサにて僧侶のグループが自由とダライ・ラマのチベットへの帰還を求めて、平和的な抗議活動を行った。

僧侶が始めた抗議活動は一般市民にも広がり、その後チベット全土に広がったが、殆どが平和的なものだった。

 
 
遊牧民、農民、僧侶、尼僧、学校の子供たちも抗議活動に参加し、
禁止されたチベット国旗を掲げて、自由とダライ・ラマの帰還を求めた。
1959年以降最大の蜂起であり、
それは『中国の統治下においてチベット人たちは幸せだ』と言う中国の主張を明確に否定することとなった。
 
僧侶たちが国際報道陣のメディアツアーを妨害し、カメラの前で訴えている。
『チベット内での人権と自由が欲しい』『中国の下ではもう生きられない』
『中国の抑圧の下では仏教は繁栄することは出来ない』
『ダライ・ラマを返して欲しい。私たちには権利も自由もない』
 
中国に抗議するために、チベット内で初めて焼身自殺を図った27歳の僧侶。
 
 
注意閲覧注意注意
 
 
 
2009年から現在までの間に、157人もの人が焼身自殺を図り、136人が亡くなった(その他の人のその後は不明)。
彼らは炎に包まれる中、チベットの自由とダライ・ラマの帰還を求めるスローガンを叫ぶ。
 
この箱には、彼らの写真、名前、年齢、焼身自殺の動機やメッセージが書かれたカードがたくさん詰まっていた。
中には10代の子も居た。国のために10代の子が自らの命を犠牲にして抗議するなんて、辛すぎる。
 
 
 
チベット内で焼身自殺で亡くなった人たちの写真。胸が痛くなる。
 
ダライ・ラマの非暴力の呼びかけに応えるため、非暴力の象徴として放棄する為に集められたナイフ。
 
ダライ・ラマがチベット人に毛皮の着用をやめるように求めると、アムドのチベット人が集まって動物の毛皮製品を燃やしダライ・ラマへの忠誠心を証明した。
 
チベットからの亡命についてのコーナー。
1959年以降、15万人以上のチベット人が亡命を試みた。
2008年以降は中国の国境警備が厳しくなり、亡命する人数は劇的に減少した。
かつては、年間2500~3500人が無事に到着したが、2018~19年の間に亡命して到着した人数は100人未満だった。
 
チベットからの亡命ルートマップ。
 
中国の警備が緩む厳しい冬の間に出発し、夜間に歩き昼間に眠る。
チベットからネパールまでは2週間から1か月。
負傷者は放置され、チベットで捕まった場合は刑務所と拷問、ネパールで捕まった場合は強制送還され中国当局に引き渡されれる。
 
 
チベットからネパールへ、そしてインドへたどり着いたチベット人たちは、凍傷で手足の指を失ったり、胃潰瘍で苦しむ人も多かったそう。
 
1959年、ダライ・ラマがインドに到着しネルー首相に亡命を求めたところ、彼は直ちに受け入れを決定し、その後チベット人に土地を与えて保護し続けた。
現在、世界の亡命チベット人12万人のうち、10万人がインドに暮らしている。
 
チベタンミュージシャンのコーナー。
 
チベタンの芸術家たち
 
作家たち
 
ラルンガルゴンパの破壊について。
 
その他環境問題、観光地の問題など、現在のチベットの色々な問題について取り上げていた。
 
チベットの平均海抜は4000メートル!
ここマクロードガンジは、半分の2000メートル、左端にある東京は40メートルだって。
 
ラサには、防犯カメラが設置されたマニ車があるらしいガーン
 
中国共産党は、GPS追跡、音声、顔認識を利用し、スマホを通じてチベット人の移動や行動を監視しているそう。
 
 
ふぅ、暗い内容ばかりになっちゃったけど、新しく知ったこともたくさんあって勉強になった!
 
 
平均滞在時間は長くて1.5時間って書いてあったけど、私は3時間半掛けてじっくり見学した。
後半は疲れちゃってあんまりちゃんと読まなかったけどアセアセ
 
 
そろそろマクロードガンジに戻ろうかな。
 
またこの道を30分掛けて上って行く。 
 
何度見てもいい景色だキラキラ 
 
 明日は明るい内容ですグッキラキラ
 

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