2008.7.13
朝は部屋でおかゆを作って食べて、街歩き
へ~~!!
まずは、ローマカトリック教会
こんな立派なカトリック教会が残ってるけ
ど、現在は、ザンジバルの97%の人がイ
スラム教徒。
次は“からゆきさんの家”と、彼女たちが
働いていたジャパニーズバー跡を探しに行く。
“からゆきさん”(唐行きさん)は九州で
使われていた言葉で、19世紀後半、主に
東アジア・東南アジアに渡って娼婦として
働いた日本人女性のこと。
「唐」は、広く「外国」を意味するんだって。
主に農村や漁村の貧しい娘たちが売られた
そう。日本にもそんな時代があったんだね。
アフリカで一番多くからゆきさんがいたの
はザンジバル島で、日清戦争が終わってま
もない明治28年には28人の日本女性が
娼婦として働いてたんだって。
当時のザンジバルは香辛料の輸出で景気が
良くて、からゆきさんたちは大金を稼いで
たそうな。
でも、歩いても歩いてもからゆきさんの家
がどこか全然どこかわかんなかった
(今はお土産屋さんが入っていて外から見るとわか
りにくいらしい)
ザンジバルに渡った娼婦のノンフィクションだって。
読んでみたいな。
次は、アングリカン大聖堂へ。
1998年にスウェーデン人のClara Sornas
によって作られた“Memory for the Slaves”
すごくリアルで、ドキッとした。
首に鎖なんてほんとひどい・・・
ザンジバル島は、アフリカ各地から連れて
こられた奴隷を市場で売買し、世界各国に
送り出す奴隷貿易の拠点でもあったそう。
以下、こちらの記事から抜粋。
16世紀初めにはポルトガル人がザンジバ
ルにやってきて、スパイスや象牙、奴隷貿
易を行っていた。
17世紀にオマーン系のアラブ人たちがポ
ルトガル人を追いやると、オマーンのスル
タンは首都をマスカットからザンジバルに
移し、18世紀後半〜19世紀前半には、
奴隷貿易が急激に拡大した。
最も奴隷貿易が盛んになったのは19世紀
で、ヨーロッパ人、アラブ人、インド人な
どにとってとても儲かるビジネスだった。
キャラバンで何日間、時には何週間も掛け
てアフリカ全土から連れてこられるのが一
般的で、鎖で繋がれたまま歩かされ、途中
で病気や飢え、栄養失調で亡くなる人も多
かった。
ザンジバルに到着すると、地下室に彼らを
閉じ込めた。マーケットで売る前に、3日
間そこで生き残ることができるかどうかの
テストの為でもあった。
そこには小さな窓しかなく、新鮮な空気も
入らなかった。多くの人、特に子供は飢え
と窒息で亡くなった。
中には海と繋がっているトイレ用の溝が掘
られていて、満潮時には30センチの高さ
の水が入り込み、排泄物を流した。
奴隷たちは完全に裸にされ、年齢や性別に
よって分けられた列の中で歩かされ、バイ
ヤーたちは体の隅々までチェックをし、値
段交渉が行われた。
奴隷たちは木に縛られ、どれだけ強いかを
示すためにムチで打たれた。泣いたり叫ん
だりしなかった奴隷はより高い値段で取引
された。
毎年4〜5万人の奴隷がザンジバルに連れ
てこられた。そのうち三分の一はクローブ
やココナッツ農園で働かされ、その他は色
々な国に売られた。
3割の男性は、過酷な労働環境の中で亡く
なった。
1873年に奴隷市場が閉鎖されたあと、
跡地には奴隷貿易の犠牲となった人達への
鎮魂の意を込めて大聖堂が建てられた。
(実際には違法な奴隷の売買はその後20
年ほど続いたそう)
それが、このアングリカン大聖堂。
内部はこんな感じ。
お昼ご飯は、屋根からバオバブが突き抜け
てる食堂へ。めっちゃ美味しかった。
実もたくさんなってる。
フィッシュマーケットへ。楽しい
カニを二匹2000シリング(200円)
で買ったけど、かなりぼられたっぽい
フィッシュマーケットの裏はこんな感じ。
タコを持って現れた青年、この後地面に
これでもかっていうくらいタコの頭を何度
も打ち付けてた。
おっきい魚
夕暮れ時、海辺でのんびり。
夜ご飯は、買って来たカニとキャベツで
スープを作って、それで雑炊にした!!
美味しい
明日はプリズンアイランドへ!!
でも風邪ひいて鼻水が止まらない
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<本日の出費>
宿 11500
昼食 1750
サトウキビ 100
揚げパン 100
入場料 3500
白米 500
キャベツ 150
卵3個 600
パン 150
カニ 1000
バナナ 500
水÷2 300
ティンガティンガペイント 5ドル
計 20150シリング=約2015円+
5USD