結果を想定してそこから動いていくってのがいいのかもしれないね。というより結果から過程を逆にたどる。チャンスの少なさは尋常じゃなかったけどそういうのに適応できればね。いうことはない。あってもなくてもかまわないと、ないほうがいいとかって混同して考えてしまうことはあるな。失敗を積み重ねることしかないね。そして失敗内容を把握しておくこと。しかないね。しかし、現実に失敗分析が少ないのはなぜだろうね。異常に少ない気がするよ。スイッチはいればいいけどなぁ~。どこで入れるかね。要素を集約して一極集中の思考が出来ればね、それに越したことはないんだけどもね。ユーモアについてもちょっと研究しとかないとね。拡散したものを収斂させる。まあまとまった文を書けばそれなりに発話も収斂すると思うけどね。しかし地域の発展においても重点的に開発されなかったところはそのまま衰退していくしかないのかね。もしくは重点的に開発されたところとの差が開く一方なのかね。広域行政というのはこれからのトレンドになるかもね。特に大国になると財政面において効率的な配分がなされない恐れもあるし、さらに面積が広いから何段階も地域区分のレベルがある。細かなところまで財政を任せていては権限の差によって不公平が生じ、結果非効率が生じるのかもしれない。ある程度広域な地域に財政権を任せて非効率、不公平をなくし、画一的な開発、サービスを実現するようにするのが、あり方かなと思う。否定は過剰なレッテルにつながり、間違った認識につながりうる。どんなに馬鹿馬鹿しいことであろうと、どうでもいいことであろうと、それを議論されているのと、無視されているのはたとえ結論が同じでも異なる状態である。結論は何回修正されれば真剣に考えられている議論となるのだろうね。中国の鄧小平が唱えた社会主義とは日本の経済発展の理念と近いのではないかな。一部の先行的な発展が全体の発展につながってそこはいたる経過時間中には公共サービスを充実させる。ってね。中国の指針として経済社会協調発展論ってのがあり、経済発展と同時に、社会事業の発展を重視し、就業、教育、医療、文化などの政策の調整を通じて、経済と社会の釣り合いの取れた発展を推進することであることなのだと。農村に配慮してもいる。2006年の中央1号文件は「社会主義新農村を建設する」ことを提起し、「工業が農業に恩返しして、都市が農村を支持する」ことと、農民に対し「多く与え、少なく取り、活性化させる」発展方針を定めた。まあ上から目線ではあるが、現実的な対応をしてくれそうな文面ではある。それだけ差し迫っているということもいえる。段階発展のプロセスにおいて気持ちのもちようの変化はある。数字が重視されるのもわかるね。目標も示しやすいし現在地もわかる。中国では2006年に第十一次5カ年計画要綱を表し、単位当たりGDPのエネルギー消費、単位当たり工業付加価値の水使用量、主要汚染物排出総量、森林カバー率などの複数の資源環境指標を達成義務のある拘束性指標と決め、人と自然の調和の取れた発展の国家目標とした。中国は二酸化炭素排出削減に関しては非常に消極的とされるが、方針としては資源節約型で環境にやさしい社会の構築を提起しているとのこと。どこまでも包括的概念があるなぁ。それもこれもある事象、ある思考がそれ自体基点となって次につながっているからだろう。正しさとはバイアスがかかった条件的なものなのだろうな。中国は2006年10月、共産党第十六期六中全会コミュニケで9大目標を提起した。第六が、シンガポールと似ているが、創造する人の私的収益率を高め、人々が社会的創造から利益を手に入れ、人々の創造がまた社会に利益をもたらすことを積極的に奨励するという。模倣が多い中国では創造性がこれからの発展のうえで最も重要なことだと思われているのだろう。イデオロギーはともかくスローガンは柔軟に変更され、ある一定期間の行動指針となる明確なものであるものが望ましいと思われる。スローガンを推進する過程で、その蓄積された悩み、諸問題への対処という経験をみなで共有していくことが望ましいと思われる。圧力団体は必要なものもあるが、業界の利益を代表して活動することで、往々に被害をこうむる人たちが存在するし、他の圧力団体との調整が進まないと何も政策決定が出来ないとかいうことになりかねないのでその存在にはどちらかというと否定的だ。その団体間の諸問題を早急に調整できる仕組みがあれば別だが。「中国の経済大論争」関志雄、朱建栄編。より
まとめようかどうか。概念が咀嚼されるまで自分のものとなっていない場合、手早くまとめてしまうか。伊勢田哲治氏の著から。実践的三段論法これが結論へ導くための、より厚い文に持っていくためのパターンのひとつということ。そして実際にはその三段論法はどこまでいっても続いているということ。マクロな結論からミクロな前提が出てきてその前提を構成する前提が出てきてって感じ。わかりきったこと研究してんなぁとかいうこともあったが、それも下地になって次の発展的な議論が出来るなら凄く意味あることなのかもしれない。ルールは合理性があるものがおおいが、抜け駆けしたほうが合理的だということも多い。基本的な言葉の意味を明確にする。事実関係を確認する。同じ理由をいろいろな場面に当てはめる。出発点として利用できる一致点を見つける。いい4か条だと思うよ。話をする際に、最初は比較的薄い記述から入って同じ事を結論として持ってくるときには厚い記述とするようにしよう。薄い記述に条件を付けることで厚い記述に持っていくことと、定義、仕組みなどについて調べること、これについては徹底しよう。有意味って何か。何らかの価値ある目的を達成するために行動すること。何らかの価値ある仕方で自分を超えること。自信や尊敬に値すること。3番目だけいやに現状肯定の気があるが、まあそういう区分もありか。表出している価値観の対立は本当は事実の問題の対立であり、裏では価値観は一緒のことは多い。というか、そんなに根本的な価値観の相違を言う人などほとんどいない。立場、場面、状況によって同じ価値判断をしているにもかかわらず結論が全く違ってくるということは良くある話だ。というかそれは経験を積むことによって前提が複雑になっていったというのがあるのかもしれないが。面白い。一般的な方針としてすでに一致できているところには出来るだけ手を付けず、それでも不整合が生じたら、出来るだけ無理の少ない方向で修正を加えるのがいいとのこと。結論あり気の表現というのは往々にして無理がある主張が多いものだと思うのだが、二重基準が取り上げられている。何が等値かってのを確認しておくってのは大事なことだ。反証を前にしたときの言いぬけの仕方が生産的ないい抜けならば評価されるしそれなりの信憑性を持つが、生産的でない言いぬけだと逆になる。理論の適用状況別の階層があるとのこと。確率的に妥当な推論はその妥当性に応じて正しさが判断され、演繹的な議論に劣らない説得力を生み出す。許容される文脈の広がり。大と小の前提の区別、その把握。最初の自分の想定結論に持っていくために力を尽くすが、最終的には妥協の産物となることは必然だろう。論争のレトリックとして視点の違いをあげるのはいいが、マジでそう見えちゃっている場合はまずいと。解釈の違いってのは往々にして生じてて、自他が別のものだけに日常茶飯事だ。それを頭に入れると。共通の世界を作るために相手の力も借りると。文脈の分業、つまり、一致してるところには手を付けないと似ている。橋頭堡、共有世界とかをキーワードとしてやるかな。
整理しきれない落ち着けない状況下での経験の蓄積は後の反省の際にブラックボックスとして機能し、思いもしない文言が飛び出してくる可能性がある。また、表に表れる数字はかかわりの強い人をあらわしており、実際それよりも関心は薄いか別の形態でかかわろうとしている人などが圧倒的に多かったりする。波及効果か。まあいい。概念は一つの残した、もしくはすでに浮かんだ文章にしたがって肉付けされたり強化されるものだ。つまり幹がないと枝は発生しないし、枝がないと葉っぱとかもつかんと。新規なものは論理と感覚が一致しないところから、つまり今までの蓄積が通用しないところから生まれてくるものに関してはそれなりのニーズが出るのかなと。緊張もかな。疲労による倦怠とかもそうかもね。よっぽどのものじゃないという前提で。ここでまたその前提をさらにゆるいものと使用とするんだよなぁ・ ・・いい訳くさい。経験の有無によって同じことを言っていても違うことを含意しているというのはよくある話だ。話し言葉ってたいてい物事を単純化してみちゃうね。概略を語るとき以外にもこういうもんだって何段階ものステップを吹っ飛ばして結論、結果にたどり着いちゃう。表と裏の意図は鏡みたいでも在り、現在(過去)と未来に対しての表出の時間差を表してもいる。いや、何言ってるんだかねw