・SMAPのCDで初となる『通常盤』・『SB Version』・『SS Version』の3種販売を行う。

・初回限定盤の『SB Version』・『SS Version』はカップリング曲が一部異なる他、

・それぞれ別内容のDVDが付属される。また、ジャケットには「お楽しみYour Number」が000001から 記されており、

・当選番号と一致した50人には、2010年9月15日のコンサートのバックステージに招待される。

・『通常盤』には、「メンバー着ボイス」が期間限定でダウンロード出来る、シリアルナンバーが封入 される。

ジャニーズの本気きたよwwwwwwww スマップは週間10万前後かと思ってたが初日で10万超えてきたwwwwww けいおんは2万8千か まあまあ順調だw ジャニーズえげつないですw もうちょっと接戦を期待してたのに、これは明らかに前回とは力の入れようが違うwww まあそれだけ危機感もあったんだろうが、それにしても初日で10万wwwとかすごいなwww やっぱりスマップwww けいおんの一位は事実上無理だからスマップの歴史に残るような売り上げたたき出しちゃってくださいw

概念は強い概念で打ち消すよりない。認知の領域でだが。今の日本の中央集権体制は各地域の国民の能力を過小評価していると思われる。領域は狭いが、確実な発展を遂げている国というのはいくつも存在する。それは各戦略がとても一貫性のある確固としたものだからに他ならない。才能ある主体であればその名前と場所、そして事業分野とが結び付けられて記憶されるだけでなく、あたかも磁石の力でひきつけるように、無関係なほかの事業分野の多くの企業をもひきつけてしまう。確かにひきつける主体は優れた能力を持っていると思われるが、ひきつけられたほうはどうなのだろうか。単なる乗換えではないのか。協力することが必ずしも社会的な発展につながっているのか。まあいい。中国では国営企業に自助努力を要求して、中央は何も関与しないという姿勢をとっているようだ。だから地方で支えるか、民営化するかといったことになる。ここからの議論の流れとして面白いのが、中央が地方への管理をかなり弱めたため(経済的なものが大きいと思われる)その結果として各都市や省は世界中からの支援を求め始め、その結果外国直接投資が流入してくることになったという指摘である。共通性か。ある程度の共通性を持っていればそれは差別排除の対象となる。極は分散していたほうが望ましいとおもう。統合された範囲の中の競争を促すのは複数の極だと思われるからだ。巨大な人口を擁する国では繁栄の中核はかなり狭い地域であり、そのため、国ごとでなく地域ごとで経済力を測るというのが重要になっている。人口の少ないシンガポール、フィンランド、スウェーデンといった小国は中央政府が異なる利害を持つ多くの地域間の調整をする手間が省けるため、組織や制度の変更が比較的短期間に出来る。大国ではいったん、ある地域が成功への途上にあると評価され始めると、中央政府や成功の要素に恵まれなかったり、立地に恵まれなかったほかの地域からの嫉妬が生まれる場合もある。この妬みは、たいがいが国全体の平等や連帯を強調し、無害を装った政策の形で、地域の成功の邪魔をする試みとして現れてくる。まあそんなことをしても格差は開くものであるが。にしても方針というのは持つのが当然でそれに沿って書き進めるものだとされてるけど方針に疑義が生じたときもかまわず進めてるのがおおいだろうね。適当な理由付けて、薄い理由でもそれで一応納得できるならね。以上、大前健一著新・経済原論から
技術の成果に関する前提があることにより、より技術的な側面が重視されることになり、その能力が求められることになる。読書の際にちょっと反射的にまとめすぎか・・・まあそれと同時に振り返ってまとめるってのも重要なのかもしれない。意志はそれ自体を失うこと無しにそれ自身を否定できる。ある意味今は過去を否定できるのと同様だ。無というのもどういうものなのかについて考えてみると深いね。雰囲気での納得の議論が出てきやすいのは神学だというのがね。まあ言い切ること自体は議論を進める上でも必要だし、それが更なる洗練された議論を生むんだけどね。不安と無は密接である。不安を生ぜしめるのは、無についての抽象的認識ではなく、無が人間の存在の一部であるという自覚であるということを意味するのである。不安を生ぜしめるのは、万物の儚さを認めることによるのでも、あるいは他者の死を見ることによるのでもなく、それらの出来事がわれわれ自身死すべき者であると言う絶えず人間に潜在する意識に対し影響を与える、そのことによるということ。また、不安とはそれが自らのものとして経験されたところの有限性であるといっている。思索的な人間であればこの文章に沿った理由で解釈することは可能かもしれない。恐怖と不安は根本的に異なり、対象をもっているかが決定的な違いだという。特定の対象によって引き起こされた恐怖ならばそれは参与することが可能であり、勇気で覆ってしまうことが出来る。しかし不安は対象が特定されない、もしくは虚無(あらゆる対象を否定している状態)であるため、それへの参与であったり、闘争というのも出来ないということ。範囲というものは統計で表されて大体理論的に表されるが、なぜ特定の局所だけ集中するということが起こるのか。キーワードに関する語をちりばめてひとつの話題領域を作り上げていく。数字が重要ではなく、自分が何を考え感じたかをまとめるのが重要だ。というかそれは重要と思ってもいい場面が異なるため一概には言えないが。人間がそれ自身の存在を保持することが出来ないことの不安がすべての恐怖の根底に横たわっている。無よりは有のほうが分析はしやすい。というか完全な無は分析が出来ない。人間の認識として存在は無に優先している。肯定は否定に優先している。連続ってのはきついわ。やっぱりw連続的な否定は特にねw要約に戻る。無は人間存在の存在的自己肯定をば、相対的には運命という仕方において、絶対的には死という仕方において、脅かす。無は、人間存在の精神的自己肯定をば、相対的には空虚さという仕方において、絶対的には無意味性という仕方において、脅かす。無は、人間存在の倫理的自己肯定をば、相対的には罪責という仕方において、絶対的には断罪という仕方において、脅かす。単純に自己基準から見るとこうだね。とかはいいよ別に。現実を先に語るべきだったかな。まあいいや。死の不安があるからこそ(まあ倫理的にいえばとか効率的にいえばとか要因は別のところにあるといいそうだが)人間は法律による脅かしが効果を持つ。死の不安は全般的な不安に間接的にかかわっているということだ。より根本的なものとして存在の偶然性による不安を上げている。時間的、空間的、対象現実、因果的相互依存関係などがあり、それらに関して考える限り、なんら究極的必然性を持っていない。偶然によって存在し、因果関係の中にあり、刻々それによって規定されており、最後にはそれによって外へ放り出される。その前提に立つと運命は必然性と同一視されるべきではなく、むしろ何が起こるかわからない暗さによって不安の対象となるとの事。後で自分で捜索した他人の批判に関してはなかなか鋭いことを言ってるよねw経験の有無に関してとか確かに無だと何もいえないんだよねwまあジャンルをあえて変えてそこの次元で話をするとか言うのはあるけどね。深く突っ込むというのもいいな。それが人生の主要テーマとなっているのならね。まあ引き下がったほうが得な場合が多いがあまりにも断定的だとね。無は消滅、喪失、攻撃を受けるときにかかわる出来事に対して寄り添っている。経験の無について問われたときはそれに関しての恥じらいを捨てて、手順を踏むことかな。なんでもそうだけど。そうするに至らない自分の主義もありかwそこに正当性を感じ取らないならもともとその経験をしても結論は変わらんと。漫画のキャラみたいに完全に受け流すのもありかw形式はすばらしいが、画一的である。本題。精神的に創造的であるためには、人は必ずしも創造的な生産活動をする必要はないが、その人たちの独創的な創作物に意味ある仕方で参与すること。だそう。現実を多面的に解釈するには手っ取り早く言語化するしかないと思うが、創造的に変化させるものとして自分自身を肯定できるものでもあるらしい。彼(自分のこと?w)がその精神的生活の内容を愛するのは、それが彼自身の実現であるからであり、またそれは彼を通して現実化させられるからである。人間を構成する要素として色々あるけど、どれかがかけたら普通とは見られないというのはよくあるねwどれかほかの要素で補いにくいというのはあるねwしかし、相手の言明なんかより重視して考えられていたのは相手の否定的態度だったんだろうね。そしてその態度をとった後の否定的な態度の継続なのだろうね。言明そのものよりその中にある否定の強さ、持続性を感じ取っていたのだろう。それに対して否定的な自分がまた顔を合わせるということも嫌なんだろうしw肯定は前提としてある。肯定の中で経過をたどって否定が出てきたら減点法で肯定の度合いが薄まる。本文。人間は問うことができるのは、彼が問うている対象に参与しながらもそこから離れているからである。かけたものに関する意識は結構強いものがある。持っていないという意識が持っているという意識を飲み込んでしまったとき、懐疑は方法的懐疑であることをやめ、実存的絶望となるのである。さて、何か大きな括りの懐疑が生じたとき、その懐疑は現実全体から分離されているその分離から生じるものであり、参与していない欠如に基づくものであり、自己の孤絶から生じるものであるので、各個人と共通なものと同一視したり、各個人の分離とのかかわりを放棄することによってこれを解決しようとする。自発的な問い・答えをすることを放棄して権威的に支持される答えで納得する。だが、それで納得するのはある種合理的である。それを怠って無意味の不安を抱えるのよりはましだ。ちょっと多い。また改めて。パウルティリッヒ 生きる勇気より