伊勢神宮と日本人3   室伏志畔 | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

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日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

 

 二.倭国から日本国への王朝交代


(二中歴の九州年号と日本国年号の繋ぎ目)
二中歴

 

 

本質を疎外し、権威を逆手にとった国家権力に従順な列島住民が日本人の誕生で、それ以前、倭人と呼ばれ歴史的に区別されることすら怪しくなった。その倭国から日本国への転換に触れた『新唐書』は、日本人は「矜大にして、実をもって答えず」と記すが、その転化はいつ始まったのか。日本国の誕生を韓半島の『三国史記』は六七〇年代の天智朝に置く。しかし、このとき列島盟主は倭国で、それに代わる日本国
の誕生は七〇一年であることは動かない。その倭国年
九州年号
号である九州年号が七〇〇年で途絶し、七〇一年に日本国が大宝を建元(はじめて国家が年号を建てること)したことにそれは明らかである。

しかし、通説は五一七年の継体にはじまり、大化六年の七〇〇年を最後する三〇数種に及ぶ連続する倭国の九州年号を、偽年号と排し、皇統を唯一無二とする大和朝廷一元史観をもって、倭国を「日本国のかつての亦の名」としてきた。このため、我々は倭国と日本国の熾烈な興亡を見る眼を一切、失った。しかし、歴史は敵対する矛盾の興亡史以外ではなかった。


 

室伏志畔の大阪講演会

 

演題 大化改新の構造

 

日時 201799日13時

 

場所 天王寺の吉田ビル2F


 阿倍野ステーションビルから谷町線沿いに150m、饅頭屋の隣り

 

連絡先8053046373 吉田安男まで