三.白村江の戦の真実 室伏志畔
それは六六三年の白村江の倭国敗戦によって公然化する。敗戦後、唐の倭国占領機関である筑紫都督府が大宰府にそそり立ち、倭国権力は解体させられるが、九州の朝倉宮にあった倭国皇統の斉明・天智政権は賑わう。ここに倭国残存勢力は白村江戦で皇統が唐に通じていたことを知り、四年後の六六七年に朝倉宮を襲い、斉明を亡き者とした。
今夏、私はその朝倉宮址(写真)を再訪し、斉明の埋葬伝承をもつ恵蘇八幡宮の背後にある御陵山に登った。この朝倉宮の変は天智称制の年でもあるが、『日本書紀』はそれを白村江戦前の百済滅亡の六六一年に造作
し、天智が百済王統を引き継ぐことを暗示し、倭国を売った皇統の卑劣な側面を隠し、九州から近江への天智の逃亡を大和飛鳥からの遷都とし、近江朝の開朝とした。その朝倉宮址に近接し朝闇(あさくら)神社があり、朝闇がチョウアンと読め、長安寺址があることは、如何に皇統が長安(唐)に傾倒していたかを窺わせる。それは戦時内閣の閣僚であった岸信介の戦後の対米追従への変身に重なり、安倍内閣はこの流れにある。
倭国のNO.2にすぎなかった倭国皇統は、白村江の戦いで倭国を裏切り、倭国王統に代わる日本国皇統の樹立を、唐の手を借り謀った。この策は当たり戦後、朝倉宮は賑わったが、六六七年に襲われ暗転する。朝倉宮の変である。この天智逃亡を隠すために『日本書紀』はそれを百済滅亡の翌六六一年に造作し、天智は列島で百済復興の先頭に立ったとした。
この天智皇統の危機を、唐は新羅との軋轢が増し、吐蕃の反乱に慌て救えなかったばかりか、六七二年、列島及び半島から唐兵を引き上げた。
この唐軍撤退の一ヶ月を待たずに近江朝打倒の兵を
(松浦俊和著『古代近江の原風景』より)→
挙げたのが大海人皇子の天武であった。この意味は、天武は倭国王統で、壬申の乱は天智・天武兄弟の皇位争いでなく、倭国と日本国の新旧国家の興亡戦で、結果が天武の勝利に帰し、大和飛鳥に宮を開いたことは、畿内大和での九州王朝・倭国の再興を意味した。
伊勢神宮の謎は、この倭国の天武が計画し、天智を父とする持統が孫・文武を日本国皇統として立ち上げたねじれに、「なにごとのおはしますか」が判らぬ謎が生まれた。それは天皇史以外を見失った日本人のつけ以外ではないのだ。
室伏志畔の大阪講演会
演題 大化改新の構造
日時 2017年9月9日13時
場所 天王寺の吉田ビル2F
阿倍野ステーションビルから谷町線沿いに150m、饅頭屋の隣り
連絡先8053046373 吉田安男まで