騎馬民族征服王朝説と南船北馬の興亡      | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

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日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

   

    騎馬民族征服王朝説と南船北馬の興亡            室伏志畔

  戦後、幾多の歴史論争がなされたが、一九四八年の江上波夫(写真)の騎馬民族征服王朝説の提唱は画期的であった。それは列島王権を半島からの北方騎馬民族による征服王朝としたことにある。これはそれまで日本純正の大和王権の発展拡大により日本列島は統一を見たとする通念を根底から疑うものであった。

その提唱者・江上波夫(19062002)に同調する岡正雄(18981982)、八幡一郎(19021987)、石田英一郎(19031968)の文化人類学者による「日本民族=民族の源流と日本国家の形成」のシンポジウムは講談社学術文庫で復刊を見ているが、それは今、読み直しても、当時の熱気を今に伝える。それは皇統を北方騎馬民族の扶余系の辰(秦)王朝の伽耶系王統に始まるとするものであった。それが如何にショッキングな提起であったかは、日本民俗学の両巨頭が交わしたこんな対話にも明らかである。

 柳田国男:(騎馬民族征服王朝説は)いったいありうることでしょうか。あなたのご意見はどうです。つまり、「倭国の大王=天皇族に」横取りされたということを国民に教える形になりますが。

 折口信夫:われわれは,そういう考え方を信じていないという立場を、はっきり示していったらいいのではないでしょうか。

       日本民族にもっとも造詣が深いと思われる二人が、危機感を持ってこう対話したことは、やはり記憶するに足りよう。            

この江上波夫の説は1990年代に発表から45年を記念してまとめられた『江上波夫の日本古代史』(大巧社刊)に詳しい。

それによると、日本文化は列島内で純粋独立に培養されたものは何ひとつとてなく、それらは韓半島を架け橋をとして大陸からの渡来人によってもたらされたとしている。それは日々、大和漬けにされている頭には、風穴を開けられたように実に小気味よく聞こえる。それは原日本人の形成が南や北からやってきた渡来人の混淆による雑種としてあるなら、大和純正を誇る皇室による日本国の形成は戯れ言としか思えないのもまた確かである。実際、集団稲作は長江下流の南中国から黒潮に乗った呉越の民によってもたらされ、青銅器や鉄器は前三世紀に始まる弥生時代に半島経由で伝えられた。それは一万年以上続いた狩猟・採集の石器文化の縄文時代から、隔絶、飛躍した文化の流入であった。そのため集団稲作は金属器をともなってたちまち全国を席巻し、現日本人につながる日本民族の出発点を形成した。

江上波夫説が興味深いのは、日本民族の起源と日本国家の起源は別問題だと区別したことにあろう。その弥生時代に連続する古墳時代前期の文化と古墳時代後期の文化には断層があり、前者は農耕文化に対応するが、「後者は騎馬民族の歴史的累計、特に征服王朝のそれによく即応する」としたところに江上波夫説の核心があり、それをこう敷衍する。

「私の考えでは、日本に初めて統一国家を建設した大和朝廷の担い手は、大陸の騎馬民族からその文化を受容したのではなく、それ自体が日本に進出してきた騎馬民族であったのではないか。つまり、日本の建設者たちにとって大陸の騎馬民族は客体的な存在ではなく、それ自体が大和朝廷を創始した主体的存在だったのではないか。」

一時、騎馬民族征服王朝説は学界を震撼させたとはいえ、今は、戦後社会の安定化と共に「騎馬民族は来なかった」説が巻き返し、騎馬民族説は今、見る影もない。しかし、その否定説にあるのは、列島が無数の騎馬による征服をイメージするマチガイに加え、江上波夫もそうだが、列島王権の舞台を大和中心に考えすぎたマチガイにある。神代での出雲のヤマタノオロチ退治や九州での天孫降臨は、騎馬民族による壱岐・対馬を橋頭堡とした、海人族の手を借りた列島侵攻を語っており、騎馬民族の侵攻は畿内の征服ではなく、出雲や九州で展開を見たのだ。侵攻後、騎馬民族は在地の王権と縁戚関係を結び、次第に王権中枢に取り入り、時至るとクーデターをもって王権を完全に掌握するのが騎馬民族の征服の定法であった。

実際、列島王権ルーツは、柳田国男の『海上の道』である黒潮に乗り太平洋岸に流れ着いた椰子の実ルーツではなく、その分流の対馬海流の日本海側の九州や出雲に集団稲作を伝えた長江下流の南船系倭人である呉越の民の渡来による。七〇年代後半から始まった中国での長江文明の発見がはかりしれない意義は、それが集団稲作文明としての原アジア文明の発見であったことだ。その流れを引き継ぎ列島での前三世紀に始まる空前の稲作社会の胎動を羨望した半島の北方騎馬民族王権による壱岐・対馬からの出雲への侵攻を、記紀はスサノオの八岐大蛇ヤマタノオロチ退治と伝え、九州へのニニギの侵攻を天孫降臨と記してきた。つまり記紀は北馬系王権の史書で、それに先在した南船系王朝を偽朝とし扱わなかった。この南船系稲作社会への北馬系の侵攻に始まる南船北馬の興亡を私は列島の基本矛盾とし、それが現在に至る日本の二重構造を生み出したとしてきた。差別語としての穢多は、川口に自然形成を見た江田を耕す南船系稲作民を奴隷化したことによろう。