騎馬民族征服王朝説と戦後史学2     室伏志畔 | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

騎馬民族征服王朝説と戦後史学2

(写真―伽耶王初代の首露王墓)

戦後史学は記紀の北馬系史観を引き継ぎ、南九州への天孫降臨を記すが、それを古田武彦は博多湾岸への侵攻とし、そこに金印国家・委奴イヌ国(倭奴国)を嚆矢とする九州王朝・倭国の誕生を見た。これに対し、私は天孫降臨をそれに先立つ南船系稲作国家・委奴国への侵攻・簒奪としてきた。その委奴国を戦後史学は皇国史観を引き継ぎ、今も大和中心の皇統一元の偏光メガネから、大和朝廷下の九州の属国・奴国とするため、今も列島王権史における委奴国の存在意義を過小評価してきた。その征服した南船系の委奴国王権隠しに連動し、列島に侵攻した北馬系王権に靡いた家来筋から神武が出現したことを記紀は隠してきた。

 その天孫・ニニギを先祖とする王朝が、北馬系の倭国で古田武彦の九州王朝となるが、記紀神代はその最後に日向三代神話を伝える。その地は南九州ではなく北九州の博多湾岸の高祖山の北麓の日向ヒナタの天孫降臨地である。その系譜はニニギーヒコホホデミ(山幸彦)―ウガヤフキアエズとあり、最後のウガヤフキアエズが神武の父というわけだ。ここで記紀神代は終わり、神武東征に始まる皇統史の人代に切り替わる。問題はこの三代系譜は九州王朝系譜のニニギーヒコホホデミ系譜に、神武に繋がるウガヤフキアエズ系譜を差し込んだグラフト(接ぎ木)系譜で、皇統は九州王朝の光り輝く王統系譜を自系譜に取り込み皇統系譜を荘厳したわけだ。

 江上波夫は騎馬民族が征服し成立した列島王権を大和朝廷としたが、騎馬民族の列島侵攻は波状的に何度とあり、その最後の侵攻が南船系の九州王朝への侵攻である天孫降臨で、その天孫王朝から神武皇統が派生するが、そこの繋ぎ部分が押さえきれなかったところに、現在の「騎馬民族が来なかった」の大和説の根強い復権を許してきた。江上波夫は、戦後史学が神武架空、それに続く欠史八代の第九代開化至る九代の天皇を歴史から排除したのに倣い、皇統史を第十代崇神に始める。それは崇神がミマキイリヒコと半島南部の任那(倭国の北国の意)からの皇統への入り婿を名乗ることに関係する。その血筋は、高句麗、百済を建国した民族と淵源を同じくする満州北部の、黒竜江省の松花江流域に建国した騎馬民族の扶余族が南朝鮮に伽耶を形成し、それが壱岐・対馬を飛び石に北九州に侵攻したとする。

 皇室はこの伽耶王統の崇神を遠祖とするも、現皇室は百済王統の天智を新皇祖とする記紀皇統を正統とする流れにある。天皇を男系に限るとする不改常典は、この百済王統の血統を死守する方策にすぎない。

戦後史学は井上光貞(19171983)の頃まで、皇統は九州から畿内へ入ったとする説が語られたが、今は大和、大和で、夜も明けない。そのため畿内説論者が掃いて捨てるほど増殖した。それは戦後初期、記紀のイデオロギー史観から戦後史学は自由でありたいと願ったが、今はその呪縛にある仲間内に自身を見出すことに安心するまでに変質・退行してしまった。しかし、学問が数の多さを誇るようでは世も末で、それは日本政府が敗戦を終戦と歴史事実をごまかし、戦争責任を曖昧にしてきた姿勢に重なる。この戦後、日本政府のあり方に業を煮やしたアメリカは、騎馬民族征服王朝説の岡正雄が戦時下、ウイーンの研究所に残した史料を、わざわざ飛行機で取り寄せる便宜をはかっているのはおもしろい。それは当時、アメリカは皇室の出自について、海彼の王権とする騎馬民族説に興味を示したことを伝える。

その騎馬民族征服王朝説は、東アジアの民族移動史に原因するが、通説としての戦後史学は社会進化論による大和国家の形成論をもって対した。社会進化論はとりどりだが、その中心にマルクス主義の原始共産制社会から共産制社会に至る段階論による社会形成論があることは、騎馬民族説に反対した戦後史学のバックボーンが左翼系学者であったという逆説を炙り出す。『騎馬民族を来なかった』を書いた佐原真は左翼ではないが、国立民族博物館館長になり、左翼系の直木孝次郎が伊勢神宮に大和国家の独自性を求めたのは、騎馬民族説と相容れない独自性に天皇制国家の特質を位置づけたい要求にあった。これに対し征服王朝説の支持者の多くが一般市民であったことは、騎馬民族征服王朝説が天皇制に真摯に対していることへのエールで、ここでも歴史学は天皇制を真正面に据えない限り、市民から信頼を勝ち得ないことを教える。天皇制の起源は北馬系王権だけで説明できないのは、稲作系の南船系王権の流れを別にもつからである。

日本の近代が黒船の来航に始まり、戦後社会がアメリカの占領に始まったことは、社会変化は外圧によって左右される好個の見本である。国家や知恵は内的に熟成されるのが望ましいとはいえ、世界に遅れをとらないためには、外部意識の注入を常に怠ってはならないとしたのはほかならぬレーニンであった。その意味で騎馬民族征服王朝説は大和中心の国家形成を説いてきた戦後史学に至る流れに思いもせぬ衝撃を与え、より大和一元史観を固定化するナショナルな流れを作った。

日本人が雑種である中で純正誇る皇室は、それ自体が形容矛盾だが、その出自をこそ誇るべきところで沈黙するのは、渡来王権とした場合の混乱を恐れ、真の勇気をもたないことにある。その出自隠しが、皇室から姓を紛失させてきたのだ。  

    三王朝交替史論と伽耶王朝

戦後史学の王権論は、騎馬民族説を排したい以上、王朝交替論は皇統枠内で論議されるほかなかった。一九五二年、水野祐は皇統を崇神王朝(呪教王朝)→仁徳王朝(征服王朝)→継体王朝(統一王朝)の三王朝交替史論を説いた。それを初代神武からとすることなく第十代崇神に皇室を始めたのは、戦後史学が初期九代の天皇を虚構としたことによる。それは記紀成立以来の万世一系の皇統史を異種の三系統の王朝を繋いだものとする。この交替時期を、私は半島国家の伽耶王朝(写真2―伽耶王初代の首露王墓)の交替時期に合わせてみた。それは大和朝廷の交替時期と数年から十数年ずれ、次のごとく連動する。

   伽耶王朝       大和朝廷

    朴王朝        (※181年か)

     ↓~184年     ↓200年頃

    昔王朝       崇神王朝

     ↓~356年     ↓~362年

金王朝       仁徳王朝

                ↓~499年

              継体王朝

 このことは日本古代史は東アジアの民族移動史の一齣で、半島情勢に連動し鳴動した。皇統は伽耶系に始まるが、崇神の三輪王朝の開始が伽耶朝の昔王朝の開始と3年、仁徳の河内王朝の開始が金王朝の開始に6年前後し、伽耶王朝の交替に連動していることは注目されてよい。継体王朝は伽耶系から百済系皇統への転換で、その百済王権の開始に伴い、五三二年に金海伽耶が、五六二年に大伽耶が滅亡し、伽耶王朝は消滅するのは、列島の伽耶系皇統の滅亡に伴うもので、それに連動した倭国王統の百済系への転換があったことによろう。皇統は継体王朝の出現までは「もうひとつの伽耶」であったのだ。記紀が伽耶を倭国の北国の意味もつ任那と呼び、その存亡についてなぜあれほどにこだわったかの理由も自ずから読めてこよう。王権論は玄界灘を越えて、半島に架橋しない限り明らかにされることがないのはもはや自明である。

果たして韓国併合した日本帝国は、それから数年した一九一五年の六月二九日に、朝鮮総督府をして「金海を本貫とする金氏の系譜は、治安上の理由によって、その発行を禁ずる」とする公布を発したことに、私は注意を喚起したいと思う。