戦後史学の革新と反動①   | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

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日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

戦後史学の革新と反動①   室 伏志畔

 

戦後、市民の歴史研究運動が活発化するのは、1970年代の九州王朝説の登場を待って始まる。それまでの市民の歴史研究は,仰せごもっともの大学関係者に指導され、市民の自主的研究運動はなかったに等しい。それが古田武彦の九州王朝説の登場を待ってなぜ、始まったかを知るために、革新的に始まった戦後史学が、戦後の安定化にともない体制的に変質を来たしたことにある。その辺りから、戦後の市民の歴史研究運動を、①戦後史学の逆説(敗戦~60年代),②九州王朝説の展開(70年代~80年代)、③ポスト九州王朝説の登場(90年代~現在)の三期に分ち、見ていきたいと思う。

 

  戦後民主化運動の教訓 

 

敗戦によるアメリカ軍の占領時代に始まった戦後の民主化運動は、二つの大きな教訓を残した。一つは、政治的引き回しによる「主人持ち」の運動は、解体を免れないということにある。その例として戦後の民科、民主主義科学者協会の活動は、敗戦直後から、華々しく始まったが、数年して頓挫に至った経緯に見ることができる。狂信的な皇国史観に代わる戦後史学の登場は、「神話から歴史へ」を説き、科学的な文献実証史学を標榜し踏み出した。その戦後史学の影響下に成立した民科は当初、その戦後の開放的な取り組みもあって、民主的な運動として全国化した。しかし、米ソ冷戦の激化にともなう左翼の政治路線が1950年を前後して持ち込まれるや、一転して凋落する。「主人持ち」の政治的引き回しに市民はそっぽを向いたのだ。

 

この民科の事実上の解体に連動し、占領体制から日米安保体制を基軸にした自由主義体制下の日本の再編劇は進行し、アメリカ指導化に政府は名目的な日本国の独立をはかり、日本国民の取り込みに成功する。加えて昭和天皇の戦後の全国行脚による国民懐柔策と朝鮮特需による日本経済の回復は、敗戦時にあった津田左右吉(18731960)(写真1)を踏まえた戦後史学の皇国史観への敵意は、独立を境に、津田左右吉にあった天皇への敬愛の念を示すものにずらされる。それは大和中心の皇統一元を説く記紀史観の補完物へ戦後史学の変容であった。

1972年の浅間山荘のリンチ殺人事件の発覚により、戦後をリードした学生運動が下火に入るのと前後して日本は大衆消費社会に突入する。このとき古田武彦が記紀や漢籍に登場する倭国を「大和朝廷に先在する王朝」とする九州王朝説を説き、一世風靡する。それはここ千二百年の皇統一元の記紀史観からのコペルニクス的転回で、天皇制擁護に入った戦後史学に飽き足らず、行き場を失っていた左翼市民を吸収し、古田武彦を囲む会が急速に拡大する。つまり二つ目の教訓は、天皇制へ向き合うことなしに、市民の歴史研究運動は活性化しないことをそれは立証したのである。

 

九州王朝説の登場と「偽書疑惑」

古田武彦を囲む会が各地で成立し、冊子を発刊し、市民が歴史研究会を雨後の竹の子のごとく誕生させた。市民の歴史研究運動はここに始まったと云えよう。それは「大和朝廷に先在する九州王朝」に、市民が新たな王朝交替論の可能性を見たことにあり、市民は真正面に天皇制をとらえる歴史学を待望していたことを語る。その会の一つに「市民の古代の会」があったが、それは最盛期には会員800名、非会員は8000名近くを裾野に持ち、古田講演会は常時、200~300名を集める活況を呈した。

その九州王朝説を知る若者は今、ほとんどいない。それは大和中心の皇統一元の学界が、九州王朝説の台頭に危機感を覚え、学界および学術誌から九州王朝説を閉め出したことにある。加えて、古田武彦が、褒貶半ばする『東日流ツガル外三郡誌』を持ち上げたところ、「偽書を弄ぶ大学教授」として「偽書疑惑」をかけられたため、マスコミは一斉に九州王朝説から腰が引けたことにある。そのため、90年代以後の九州王朝説は、昇竜のごとくあった70、80年代を思うと、日陰の花のごとく伏在してきた。その説を批判的に継承する中から、現在、新たな展開が始まっているとはいえ、それを知る人は少ない。その提唱者・古田武彦は、昨秋、89歳で逝き、時代は新たな模索期に入った。

拙論は「主人持ち」の政治的引き回し主義からの自立と、天皇制批判を真正面に見据えることなしに市民運動はありえない戦後の二つの教訓を踏まえ、現在の市民の歴史研究運動が抱える問題を考察するものである。