安倍政権の政治的背景- 比較敗戦後論④ | 南船北馬のブログー日本古代史のはてな?

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日本古代史は東アジア民族移動史の一齣で、その基本矛盾は、長江文明を背景とする南船系倭王権と黄河文明を踏まえた北馬系倭王権の興亡である。天皇制は、その南船系王権の征服後、その栄光を簒奪し、大和にそそり立ったもので、君が代、日の丸はその簒奪品のひとつである。

幻想史学入21 古代史のはてな?

   安倍政権の政治的背景 

          比較敗戦後論④         室伏志畔

 

(戦時内閣を構成した岸信介と東条英機)

一九四五年の敗戦から今年はすでに71年目にあたる。アメリカの占領下の片山内閣、二一世紀の民主党内閣の数年を除き、吉田茂の自由党から現在の安倍晋三に至る自由民主党は、親米保守内閣として一貫して戦後政治を牛耳ってきた。

これは六六三年に白村江の敗戦後、唐に敗れた九州王朝・倭国が唐の占領下に解体されるも、六七二年の壬申の乱で天武が、その唐の手を借り日本国を立ち上げようとした天智皇統近江朝を破り、畿内大和で倭国を再興した展開と大違いである。

しかし、その三〇年後の七〇一年には、倭国にとってかわり日本国が大宝を建元し立ち上がったが、正史『日本書紀』はこの「倭国を日本国のかつての亦の名」として、列島における九州王朝・倭国から近畿王朝・日本国への王朝交替を隠す、皇統一元史観をそそり立たせてきた。

しかし、白村江の敗戦後の列島権力は占領権力を入れるとこう三変した。

  唐の占領権力→倭国権力の再興→日本国権力の創出

         ↑       ↑

壬申の乱      大津皇子の変

 それでは鬼畜米英の戦時から親米への国家権力の転換は、唐の占領にあった倭国同様に、倭国王統に代わり九州の朝倉宮の斉明・天智政権が新唐派として栄えた占領期に倣う余儀ないものであったのは確かである。しかし、唐の列島からの完全撤退とちがい、冷戦の激化による日本の自由主義陣営への取り込みによる日本の基地化による独立承認から半世紀以上経った現在にあっても、国家権力層の独立自尊の主張が、新憲法の改定による旧日本への回帰という後ろ向きのものでしかないのは政治的頽廃以外の何ものでもない。これは戦後革新陣営が親ソ容共の姿勢に見合うもので、時勢に抗しがたいとはいえ、戦後日本的な状況からの日本国確立のための創造的提言が、保革共に打ち出せなかったことは淋しい。

戦後の行き詰まりが顕著になった九〇年代はまた、世界的には社会主義国の終焉と新保守主義の台頭の時代で、二一世紀を前に一九九九年「日の丸」が国旗に、「君が代」が国歌に制定を見たことは、旧日本的伝統への回帰の一里塚で、それはかつての倭国の「君が代」とニギハヤヒ旧皇統の「日の丸」の日本国への回収で、国民の歴史意識の曖昧化につけ込んだ皇統一元史観への伝統の取り込みであった。

 この内政における踏み出しに呼応し、二一世紀と共に成立した小泉内閣はイラク戦争への積極関与によって戦後の憲法枠を大きく踏み出した。これに続く自民党内での内閣のたらい回しの千載一遇の好機を得て、民主党が政権を握るも、それは無策・無能の政権担当能力がないことが明らかになり、第二次安倍内閣が二〇一二年に成立すう。それは国会無視の閣議決定の強権政治をもって、党則を改定してまで三期を窺う状況にある。この二十一世紀を前後しての小泉純一郎や安倍晋三の長期政権は、かつての朝敵・隼人や蝦夷の首相誕生で、それは八世紀の正史成立以来、かつてなかった珍事である。

明治以来、日本国家のイデオロギー的基礎は大化の改新と明治維新に置かれており、現皇統が新皇祖と仰ぐのが天智で、男系天皇をもって皇位継承とする『不改常典』は天智皇統維持の為のものである。その天智は六六一年に斉明崩御を見るや称制を引くが、その意味はその前年に滅んだ百済をその翌年に天智は列島で百済復興の先頭に立ったと造作表示で、天智皇統が百済王統である忍びやかな表明で、天智を戴く日本国は列島における百済復興を意味する。そのため、この海彼の王権としての天皇制は、それまでのあらゆる価値ある伝統をわがものとする皇統への回収作業を進め、二一世紀を前に新たに「日の丸」と「君が代」を取り込み、現在及び未来への君臨装置を確かなものとしてきた。

この意味で八世紀以来、日本国の支配層は、先在した王権を鬼とし追い出しをはかったが、その一端にあった隼人や蝦夷の今世紀における内閣誕生は例を見ない。この誕生の背景は何であろうか。

それを明治以来の国家権力の変質に求めざるをえない。それは薩長藩閥勢力に始まるが、一八七七年の西南の役での西郷隆盛の死により薩摩勢力は弱まり、長州閥の支配するところとなる。一九一〇年の明治天皇の崩御によって近代日本のタガはゆるみ、一九二二年に近代軍隊を創った山県有朋の死によって軍紀が乱れ、二八年の田中義一の死によって長州軍人閥は絶える。これから三年し5.15事件があり、満州事変が勃発する。その五年後の一九三六年に2.26事件があり、翌年に日華事変が繰り返される。それは軍紀を失った軍閥の政治介入に始まる東アジア侵攻であった。

この三〇年代を牛耳った軍人の多くは、明治初期、薩長軍閥によって痛められた奥羽列藩同盟の国々の旧賊軍の出身者の冷や飯組であったと、内田樹は「真崎甚三郞は佐賀、相沢三郎は仙台、相沢に斬殺された永田鉄山は信州、東条英機は岩手、石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手」で、「あの戦争があそこまで暴走したのは、『賊軍のルサンチマン』」であったと云い、「薩長勢力を中心に築き上げて近代日本のシステムを全部壊すことになった」と『日本戦後史論』で発言している。

問題はこれら旧賊軍人は薩長軍人の登用に神経質であったが、満州や東アジアに侵攻するも、その運営のノウハウをもたなかった。ここに重用された男があった。彼は長州人であったが、満州の五カ年経済計画をまとめ、東条内閣の下で商工大臣として政治経済を一手に引き受けた。誰あろう安倍晋三の祖父・岸信介である。岸は満州経営の計画を練る中で、官界、財界に知己を得、さらに関東軍参謀長の東条英機と親交を結び、軍部との関わりを持ち、さらに麻薬取引で裏社会と深い関わりをもった。

東条英機の戦時内閣の一端を担った岸は、そのため戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨に三年間拘置される。しかし、戦後の冷戦の激化に伴うアメリカの世界戦略の転換に伴う朝鮮戦争の勃発から自衛隊の成立の過程で、岸の裏社会にまで通じた人脈がアメリカの珍重するところとなり、戦犯容疑は解除され、CIAの後押しもあって、戦後破格の出世の道が開け、一九五三年の政界復帰後、四年で首相に上り詰める出世街道を疾駆した。それは岸と三〇年代以後の賊軍関係者との復縁の始まりでもあった。こうして戦時内閣の一端を担った岸は、今や親米派の現実的政治家として官界、経済界の支援を受けるのは、裏でのアメリカの強い後押しがあったからである。独立と引き替えにアメリカを中心とする安全保障体制に入った日本国を、より緊密な日米関係の構築のために、岸内閣は六〇年の安保条約の改定へ突っ走る。それはアメリカと旧勢力を取り持ち、戦後の逆コースを確個なものとした。

その六〇年の安保条約の強行採決に抗議し、国会は連日、デモ隊に取り巻かれ、アイゼンハワー大統領の訪日が警察だけでは危ういと思った岸は、児玉誉士夫を頼り、暴力団組長に使者を立て、錦政会の稲川角二、住吉会の磧上義光、テキヤ大連合の関東尾津組の尾津喜之助に支援の合意を取り付け、さらに三つの右翼連合組織にも要請したとウイキペディアは詳しい。そのため大統領の安全を守るために、1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団員の動員が計画されたとある。

その孫・安倍晋三が山口組会計役との密会がスクープされたが、会計役は、「いつでも十億円はご用立てできます」とうそぶくほど、戦中から裏組織とは切れない関係にある。 (安倍首相と韓国籍の山口組金庫番・永本壹柱ー左のスクープ写真)

問題は自衛隊との関係である。安保反対デモに国会が取り巻かれ、岸は自衛隊の出動を要請したが、自衛隊長官の赤城宗徳は即座に断った。この岸の屈辱がその弟・佐藤栄作から安倍晋三の自衛隊の手なずけ作戦を結果している。なぜなら岸―佐藤―安倍と続く政権の真の身内勢力は自衛隊とヤクザであるからである。この見識が今の防衛庁長官の稲田朋美にあるかは怪しい。その怪しいが故のこれは抜擢で、憲法改定に伴う事態への備えなのだ。

かつての賊軍との岸との三〇年代からの結びつきが、現在の安倍政権と自衛隊の関係の基礎となっている。それは決して利権を手放すまいとする賊軍の貪欲との手打ちを基礎に置いており、維新は維新でも没理想の利権追求なのだ。(2016.10.27)

 

福永晋三の大阪講演会案内

講演演題 真実の仁徳王朝

11月5日(土)午後1時

場所 吉田ビル2F

連絡先080-5304-6373

 天王寺のステーションビルから谷町線沿いに150m四天王寺方面にに向かい、饅頭屋横の階段を二階にあがる。