隋書の続きです。

遣隋使の真実です。

607年

あの有名な聖徳太子の手紙です。

その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は

『海の西の菩薩のような天子が

 手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので

 朝拝に派遣するとともに

 出家者数十人が仏法を学ぶために来ました。』

と言った。

うん、最初の挨拶ですね。

続いて

その国書にいう。

『日が昇るところの天子が書を

 日の沈むところの天子にお届けします。

 お変わりありませんか。云々』

煬帝はこれを見て喜ばず、

鴻臚卿に

『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。

使者は小野妹子

国書を作成したのは聖徳太子です。

日本側の歴史書 日本書紀などでは

今回の遣隋使が1回目となっています。

600年時は、全て口頭で倭国の事を紹介しましたが

今回は、国書に書いて渡しています。

 

この時のやり取りを物語にすると

小野妹子:海の西の菩薩のような天子は偉い方です。

     沢山の僧侶を連れてきましたので仏法を教えてください。

     こちらに我が国の王からの手紙をお持ちしました。」

煬帝  :私を菩薩の様な天子と云うのか、良い心がけだ・・・」

煬帝が国書を手にして読む

日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に・・・

何~、私が日沈む所の天子、倭王は日上る所の天子!!

天子と呼ばれるの、この大陸の皇帝だけだ

ふざけるな

次の文書は読まずに、破り捨てます。

小野妹子:おいおい、太子なんの手紙を書いたのだ。

     皇帝によろしく頼むと書いた手紙と云っていたじゃないか。

煬帝  :返事を書くから、この手紙をもって帰れ。。。

聖徳太子の原文は残っていない

その内容は

煬帝を怒らせた冒頭の部分だけしかわからない

です。

そして、煬帝が倭王宛てに書いた手紙も

小野妹子が途中で盗賊に襲われて紛失した

事になっていて

返事の内容も歴史上誰にもわかりません。

600年の時は

わけのわからんを倭王が言ったので

改めなさいとやさしい言葉

今回は

ちゃんと実行したかな?と期待していました。

ところが

自分のことを 日上る所の天子!!

今は高句麗攻めしているから

高句麗ぶっ潰したら、次は倭国の番だ

手紙に書いておくから、倭王に伝えておけ

こんな感じです。

そして

翌年の608年

煬帝は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。

百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み

はるかな大海の中にある対馬国を経て

また東の壱岐国へ至り

また筑紫国へ至る。

また東の秦王国(大和)に至る。

・・・

また十余国を経て海岸(太平洋)に到達する。

筑紫国以東はみな倭に付属している。

筑紫は大和の国ではない??

筑紫での会話は

ざ~っと

裴世清:去年に手紙を出した倭王に会いたいのだが・・・

筑紫の役人:あっ。それね。うちの王じゃないっすよ。

      東に向かってください。

      大和と云う国があるので

      その国ことでっせ・

そして

筑紫から大和までに国は沢山あるのに省略?

大和に到着すると

「倭王は小徳の阿輩臺(アハタイ)を派遣し

数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。

十日後、また大礼の哥多毗(カタビ)を派遣し

二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。

既にこの国の都に到達した。」

10日も待たせています。

この間に聖徳太子は何を考えた?でしょうか。

「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。

『私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。

私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。

そのため内側に留まって

すぐに会うことはしなかったが、

今、殊更に道を清め、館を飾り、大使を待っていた。

どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。』

 裴世清は答えて言った

『皇帝の徳は天地に並び、うるおいは四海に流れています。

王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、

使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。』 

対面が終わって引き下がり、清は館に入った。

607年の手紙とは、大きく違って

大分下手に回って対応しています。

こんな感じです。

王は裴世清と会見して大いに喜んだ

・・私たちを礼儀を知らないので

すぐに合う事が出来なかった

すみません。

この時の対応したのは?

聖徳太子?不明です。

そして

610年に三度目の遣隋使を派遣しています。

但し、日本側の歴史書 日本書紀などには

600年の遣隋使は紹介されていません。

随所によると

600年 王の名前、政治、阿蘇山などを口頭で紹介

607年 聖徳太子の手紙でご立腹、翌年役人が派遣される。

610年 三度目の遣隋使派遣

一方、日本書紀では

600年の記載がなく

なぜか614年にもう一度派遣の記載が?

ここは、全て隋書を信じます。

「古事記」「日本書紀」の作者

607年と610年に遣隋使を派遣したことを書いておこう。

あれ??随所には、3回派遣されたことになっている。

600年は、大和からではなくて

筑紫が勝手に派遣したのに・・・

無文字だとか、巫女の云う事を信じるとか

余計な事まで伝えおって・・・

600年はなかったことにして

仕方ない、614年の派遣を追加しておこう。

600年の派遣の時に紹介された倭王

アマタリシホコアハケミは

筑紫の王です。

後の旧唐書では

倭国と日本国を分けて紹介しています。

 日本国は倭国の別種である。

 その国は日の昇る方にあるので

 「日本」という名前をつけている。

新唐書においては

日本は古の倭奴国(いどこく)である。

・・・

 国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、

 初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し

 彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代

 いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ

 筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。

何と

「古事記」「日本書紀」にない事実が

紹介されています。

初代:天御中主(あめのみなかぬし)

?代:天タリシホコ(隋の時代)

32代:天の彦瀲(なぎさ)(唐の時代)

です。

1代20年で計算

32代あれは640年前

魏志倭人伝の伊都国になります。

この時代、近畿と九州で

同じような国造りしていました。

古代の名前と地名 

その為

似た様な地名が多数あります。