隋書、旧唐書、新唐書の倭国伝(前編)

では卑弥呼の時代(3世紀ごろ)から

倭の五王(5世紀ごろ)までを紹介しています。

その続きです。

・隋書

 聖徳太子が遣隋使を贈った時代です。

 既に、漢字も使っています。

 隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

 西暦600年

 倭王の聖徳太子の遣使が宮中にやって来た。

 お上は、その風俗を訪ねさせた。使者は言った。

 ”倭王は天を兄とし、日を弟として

 天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。

 日が出ると事務処理をやめ、我が弟に委ねようといいます。” 

 高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”

 と言い、さとしてこれを改めさせた。」

かなり詳しく紹介されています。

 608年、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を使者として倭国へ派遣した。

 百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、

 はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、

 また東のイキ国へ至り

 またチクシ国へ至る。

 また東の秦王国に至る。

 その人は中国人と同じで

 夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。

 また十余国を経て海岸に到達する。

 チクシ国以東はみな倭に付属している。

この時代、倭国は大和朝廷の事であるようですが

九州の筑紫は

まだ大和朝廷連合ではなかったようです。

『旧唐書』倭国伝・日本伝 : 古事記の神々

何と

倭国と日本国の二つが紹介されています。

 倭国の広さは東西は5か月の旅程で

 南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

 倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏

 一大率を諸国において検察させている。

 小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。

 倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。

 俗人は仏法を敬っている。

 631年。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。

 太宗は道のりが遠いのをあわれんで

 所司に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ

 さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して

 てなずけることにした。

 ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして

 国書を述べずに帰国した。

一方、日本国は

 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので

 「日本」という名前をつけている。

 彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。

 東や北の境は大きな山があってそれを境としている。

 山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

 703年、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。

以後、遣唐使の来訪が記載されています。

『新唐書』東夷傳日本國条 

新唐書日本伝を読む

1060年(北宋時代)に作成されています。

「古事記」「日本書紀」の記述を引用していて

倭国伝の記載が無くなり日本伝になります。

 日本は古の倭奴国(いどこく)である。

 都長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中にある島国である。

 その国土の広さは歩いて東西は五ヶ月の行程、南北は三ヶ月の行程である。
 国都には城郭がなく、材木を並べて木柵とし、草で屋根をふいている。

 周辺には五十余りの小島があり、

 それぞれ勝手に国と号し、日本国に臣下として服従している。

 王は統轄者を一人置いて、諸地方を監督させている。
 国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、

 初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し

 彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代

 いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ

 筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。

 彦瀲の子の神武が立ち

 あらためて「天皇」と呼ぶようになり

 都を大和州に遷した。

なんと!!

初代の王は天御中主(あめのみなかぬし)で32代目が彦瀲(なぎさ)筑紫に住んでいた。

彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。

私たちが知る、日本神話の神武東征とは、かなり違っています。

どちらに真実があるのでしょうか。