大野藩蝦夷地進出 | 北海道歴史探訪

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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

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2017年10月14日の放送テーマは「大野藩蝦夷地進出」でした。






                       
幕末期、本州の多くの藩は財政難に苦しんでいました。

大きな藩でも借金で首が回らないという中、産業が少ない小さな藩の中には、存亡の危機に直面しているといった状況の藩もありました。

その財政難を緩和する方法として、蝦夷地への進出と開拓という視点で動いた藩がありました。

現在の福井県にあった越前大野藩です。

大野藩の藩祖は、徳川幕府創設期に活躍した大老・土井利勝の3男利房。

彼自身も老中などを務め、4万石として大野に入っています。

幕末のころは、7代目の利忠が家督を継いでいました。

利忠は、大胆な藩政改革を実施していこうとします。

そのために開明的な家臣を登用しました。

代表的な人物が、内山良休・隆佐(りゅうすけ)兄弟でした。

隆佐は、1813年生まれ。早くから学問を好み、20歳ごろ佐久間象山にも教えを受けたといいます。

利忠と彼らが推進する改革は、多岐にわたりました。

藩士の禄高の削減や倹約令の施行をしつつ、新たな産物所で漆・生糸・絹糸・タバコ・麻・茶などの生産を奨励していきます。

また、藩校の設立や種痘の実施など、様々な事業を進めました。

こういった活動のおかげで、山間の小藩でありながら大野藩は名を馳せていきます。

しかし、この藩はさらにユニークな手法を展開します。

1855年5月、藩は「大野屋」という暖簾の店を開店しました。

店は藩直営。まずは大野藩領内で開かれました。

取り扱う商品は、大野の特産品をはじめ様々なものが並べられたといいます。

その後、大野屋はチェーンの拡大を図っていきました。敦賀・岐阜・名古屋など次々と店舗を増やします。やがて大野屋は金融業まで行うようになり、大きな利益を上げていったと伝わります。

そんな中、幕府は北方の脅威に悩んでいました。

1853年のロシア・プチャーチンの来日以来、蝦夷地の防衛や開拓の重要性を強く認識していました。

特に樺太は日露の国民が雑居している状態で、ロシア人の移住が目立っていました。

1855年・安政2年10月、幕府は全国の諸藩に対して、蝦夷地の開拓希望を募りました。

これにすぐに反応したのが、大野藩でした。

内山兄弟を中心とした重臣会議で、蝦夷地進出の方向性を確認。

12月に幕府に嘆願書を提出しています。

我が藩では、かねてより漢学・洋学・兵学を研究してきた。これらはすべて我が国に尽くすためのものである。

また、我が藩は北寄りの山間極寒の地であり、雪が5尺も6尺も積もる。

人はこのような環境に生き、狩猟や漁猟にも慣れていて、身体はいたって強健である。

この機会に日本のため、幕府のために尽くしたい。

そのような内容で訴え、内山隆佐を総督として30数名を蝦夷地に派遣しました。

彼らは蝦夷地南西部を調査し、長崎や下田と比較して箱舘が無防備なことを認識し、寒心の至りと表現しています。


開拓希望を幕府に申し出た大野藩でしたが、なかなか幕府の決定はおりませんでした。

幕府は、蝦夷地の直轄経営を志向するようになり、結果的に大野藩の開拓希望を却下する形になりました。

一方、藩は箱舘に大野屋を開店させました。

貿易をモデルとしたビジネスを展開していきます。

箱舘には関東・関西から九州にまで及ぶ砂糖・塩・織物といった物産、江戸の団扇・錦絵・小間物などが送られたと伝わります。

また箱舘からは、昆布や干し魚などの海産物が送られ、江戸や大坂などで売りさばかれました。

そういった活動をしていく中、大野藩は船の確保にも注力していきます。

藩士を幕府海軍所に入れて航海術を学ばせ、建造中の船を買い上げて造船に着手。

そして、大野丸という船を完成させました。

これらの活動が示す通り、彼らは蝦夷地の開拓希望をあきらめたわけではありませんでした

彼らは早川弥左衛門という人物の献策で、北蝦夷と呼ばれていた樺太の開拓に乗り出そうと画策します。

藩は早川たちを樺太現地へ派遣。1858年3月に、幕府から樺太西海岸のライチシカから北の北緯50度近くのホロコタンまでの領域を開拓地域として許可されました。

翌1859年3月、藩は大野丸で内山隆佐を開拓総督とした藩士10数名・領民20名を、敦賀から出航させました。

船は箱舘に入港。隆佐は箱舘にとどまり、他の者たちが樺太に向かい、その大地に足を踏み入れました。

彼らにとって樺太は、大きく藩財政を好転させる大地になるはずでした。

そのために、寝食を忘れるほどの開拓作業を推進していきます。

しかし、そこにあったものは開拓の行き詰まりでした。

実際に開拓を進めてみると、思いのほか膨大な経費がかかることが判明してきました。

大野藩のような小さな藩には、資金をまわすことが困難になっていきます。

ついには、幕府の援助がないと開拓地の返上を申し出るしかないほどになります。

大野藩は幕府に窮状を訴えました。これに幕府側が大いに驚きます。

1860年・万延元年8月、幕府は藩主・土井利忠を呼び寄せ、樺太で引き渡した土地は、領土として開拓に精を出すこと。助成金の代わりに、藩の江戸表の御用をすべて免除するといってきました。


この沙汰により、樺太の一部は大野藩の準領地と認識され、藩は北方の守りと開拓に努めていきます。


しかし、1862年・文久2年、蝦夷地開拓に熱意を持った藩主・利忠が引退。

また開拓の中心人物であった内山隆佐が、51歳で亡くなります。

さらに、彼らの開拓精神を象徴する大野丸が根室沖で座礁破損してしまいました。


このような不幸が重なり、樺太経営も次第にうまくいかなります。

1868年・明治元年3月、大野藩は樺太領地を新政府に返還。開拓を終えることになりました。


財政の危機から蝦夷地に進出した山間小藩である大野藩。

最終的にはうまくいきませんでしたが、その抱いた夢はどの藩よりも大きなものだったかも知れません。




出典/参考文献
幕末維新-えぞ地にかけた男たちの夢 北国諒星 北海道企画出版センター 2008
インターネット資料