ジャンカルロ・フィジケラが独占告白。フェルナンド・アロンソの陰でNo.2に徹したルノーF1時代 | 北海熊の独り言

ジャンカルロ・フィジケラが独占告白。フェルナンド・アロンソの陰でNo.2に徹したルノーF1時代

17年前、あなたはどこで何をしていただろうか?決して長くはないが短くもない時間……ただ、スポーツの分野で考えると17年はとても長く、まずそれほど長い年月を現役選手であり続けるのは容易なことではない。

 

 フェルナンド・アロンソは17年前の2006年に2度目のF1タイトルを連覇するかたちで獲得した。今も現役で走り続けているアロンソ、ちなみに2023年シーズンを戦った現役F1ドライバーのなかで、2006年のアロンソ戴冠を『F1ドライバー』の立場から目の当たりにした者はいない。ルイス・ハミルトンでさえ、デビューするのは翌2007年、いかにアロンソの現役生活が常識を超越する長さかといえる所以だ。

 

 2001年でデビューし、2003年に初優勝、2005年に初タイトルと順調すぎるF1キャリアをスタートさせた若き日のアロンソ。ただ、所属チームのルノー関係者も、彼が将来のチャンピオン候補であることは理解していても、すぐに覚醒するとは思っておらず、着実に実績を踏んでいく過程でチームのリーディングドライバーは別に立てて戦うプランでいた。その存在が2005年からアロンソのチームメイトに抜擢されたジャンカルロ・フィジケラだった。

 

ルノーに加入した時点のフィジケラは、優勝回数こそアロンソと同じ1勝だったが、キャリアとしてはアロンソより5年長く、それまで所属してきたチームでは常にエース格の活躍で実績は十分。まだ比較的実戦経験が浅いアロンソを引っ張る存在として、フィジケラのポテンシャルを当時のルノー関係者たちは高く買っていたようだ。

 

 しかし、史実を知っている人たちならお分かりのように、フィジケラはアロンソのNo.2に甘んじた。これはフィジケラがどうこうと言うよりも、チーム関係者たちの想定を超える早さでアロンソが急成長を遂げたと言った方が正しい。

 

 ルノーの前身はベネトン、英国エンストンに拠点を構えるこのチームは、ミハエル・シューマッハーが所属していた時代以外に選手権争いをした経験はなく、その時もチームの考えは一貫していた。それが『絶対的No.1体制』。ふたりのドライバーを自由に戦わせて共倒れするリスクをさけるために、完全にエースとNo.2の立場を決めて戦った。それだけにアロンソの完全覚醒を目の当たりにしたチームが、フィジケラにNo.2の役割を担うように仕向けたのは自然な流れだった。

 

 それまでのキャリアで常にエース格として戦ってきたフィジケラにとって、この要望を受け入れることは非常に困難だったであろうことは容易に想像がつく。しかし、フィジケラはチームのためにNo.2ドライバーの役割を受け入れる覚悟を見せた。葛藤はあったが、すでに32歳、ベテランの域に差し掛かっていたからこそ、彼は大人の対応と選択ができたのかもしれない。

 

ここで、ジャンカルロ・フィジケラのインタビューを特別に公開。このインタビューのなかでフィジケラはプロに徹した心情を語っている。そして、悔いのないF1人生であったと自らのキャリアを振り返った。アロンソとルノーのダブルタイトル連覇に大きく貢献したフィジケラのインタビューをお届けする。

 

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■最高だった2年間

──2005年にフェルナンド・アロンソが自身初のチャンピオンシップを制し、翌2006年も連覇しました。あのシーズン、最も印象に残っていることは何ですか?

 

「特に2005年から最高のシーズンだった。フェルナンドがドライバーズタイトルを、同時にコンストラクターズタイトルも獲得できた。マシンは2005年から着実に進化しており、シーズン開幕当初に得たフィーリングは前年と同じだったんだ。とてもコンペティティブで、チャンピオンシップを狙えると確信したよ。開幕から仕上がっていて私も第2戦のマレーシアで優勝できたし、前年に続いて本当に良いシーズンを送れたんだ」

 

 

──V8エンジン初めてのシーズンであり、V10からの移行は大きなステップだったと思います。ルノー・チームはV8移行とともにギヤボックスを6速から7速に変更しました。

 

「V8になってギヤボックスも変更した方がいいとなり、7速にしたんだ。V8エンジンを考えてうまく歩み寄れ、正しい選択だったと思う」

 

──あのシーズン最大の話題はマスダンパーでした。マシンに装備した結果、うまく機能したのですか?

 

「もちろんだ。特に縁石を乗り越える時の挙動が改善された。マシンをコントロールしやすくなったし、快適になった。装備してよかったよ。オフにテストを繰り返し、さらに改善したうえで実戦投入できたんだ」

 

──バーレーンのレースでは油圧トラブルに見舞われ、数少ないリタイアのうちの1回となりました。

 

「開幕戦でエンジントラブルが発生したことは、確かに喜ばしくはなかった。そのせいで少し信頼性に不安を感じたんだ。ただ、その後、問題はまったく起こらなかったし、パフォーマンスと信頼性が非常に優れたパッケージに仕上がっていたよ」 

 

 

──マレーシアはポール・トゥ・ウインでしたが、あのときはチャンピオンシップを狙える、アロンソに勝てるかもしれないと思ったのではありませんか?

 

「確かに私は自信満々だった。シーズン序盤のマレーシアで勝てたのは本当にうれしかった。マシンの仕上がりもよく、快適にドライブできたしね。フェルナンドと競い合えると期待したけれど、その後、いくつか問題を抱え、結局、彼を脅かすほどのポイントを稼げなかった」

 

──続くオーストラリアではグリッド上でエンジンがストールし、ピットスタートを強いられました。あの段階ですでに、あなたの勢いは削がれかかっていたのでは?

 

「スタートでエンジンストールとか、何らかのトラブルでレースを諦めなければならないのはもちろん辛い。同時に、チャンピオンシップポイントも取りこぼしてしまうことになる。残念ながらそうなった時、ドライバーは何も為す術がないんだ」

 

自らがすべきこととは

 

──第5戦ヨーロッパからカナダまでアロンソは5戦連続ポールポジションを奪取し、うち4勝を挙げました。あの時点でシーズンの流れはアロンソにあり、勢いに乗っているように見えました。かなり厳しい状況になったと思いませんでしたか。

 

「そうだね。あのときフェルナンドは連勝中で、とても速かったし、とてもリラックスしてドライブしていたので、そう簡単に倒せる相手ではなくなっていた。だからマシンが様々なトラブルに見舞われた後、すぐに気づいたんだ。ポイントでもフェルナンドから大きく引き離されていたので、チームのことを考えるべきじゃないかと……。再びコンストラクターズタイトル獲得を目指して、最善を尽くそうと思ったんだ。自分はチームとフェルナンドのために仕事をすればいい。プロフェッショナルドライバーとして、そうせざるを得ない時もあるからね」

 

──その後、モナコの予選では走行妨害でペナルティを科され3グリッドダウン、カナダではフライングスタートでドライブスルーペナルティを受けました。こうした不運が続き、チームを後押しできませんでした。

 

「ミスや不運は避けられない。それでも2年連続でコンストラクターズタイトルを獲得できたからよかった。私の貢献は報われたんだ」

 

──第12戦ドイツからマスダンパーが使用禁止となりました。マスダンパーを装備しないだけで、マシンは大きく変わってしまったのですか?

 

「明らかに、まるで挙動が違った。そのせいでドライビングスタイルを少し変更しなければならなかったし、セットアップも完璧には決まらなかった。チームは再びゼロからやり直さなければならなくなり、厳しい週末になった。ただ、レースを終えた時には、少しはコンペティティブさを取り戻したとも思えたよ」

 

─素晴らしい技術を取り入れて誰もが合法と確信していたのに排除しなければならず、チームはフラストレーションが高まったことでしょう。

 

「マスダンパーありきでルノーR26を作ったのだから、正直なところ、途方に暮れたよ。オフに様々な作業を重ね、マスダンパー装備のマシンに最適なセットアップを模索してきたのに……取り外すと、まったく別物のマシンになってしまう。そうなると最初からやり直すしかないんだ」

 

──雨のハンガリーではスピンしてしまいましたが、私の記憶ではあのシーズンのあなたの2回のリタイアのうちの2回目でした。 

 

「そう、ちょっと難しいレースだったね。ウエットコンディションでコントロールを失い、マシンにダメージを与えてしまったんだ。あのシーズンふたつ目の残念なレースだった」

 

 

──多くのレースであなたは燃料多めでスタートしていたように見えましたが、あれは戦略だったのですか。

 

「タイヤを持たせるのが得意だったからチームにとってプラスと考え、フェルナンドとは異なる戦略を採ったんだ。ただ、それがうまくいく時もあれば、効果がない時もあった」

 

──最終戦ブラジルは記憶に残る展開となり、アロンソが連覇を決めました。ミハエル・シューマッハーとの接触について何か覚えていますか。

 

「ブラジルはコンストラクターズタイトルを懸けた、とても重要なレースだった。フェラーリはルノーよりはるかに調子がよく、本当に速かった。周回を重ねるたびにミハエルはポジションを上げ、ついに私の背後についた。そしてストレートエンドで、私を抜きにかかった。2台は非常に接近しており、記憶している限り、ほんの少しだけ彼に当たったんだ。ただ幸いなことにと言わせてもらうが、ミハエルはパンクに見舞われピットに向かうことになった。そのおかげで私たちはチャンピオンシップを手に入れることができた。その意味でも重要な一戦だった」

 

──シューマッハーはフェラーリ最後のレースでした。あのアクシデントについて、彼と何か話しましたか。

 

「実はよく覚えていないんだ。あれは単なるレーシングアクシデントだった。ペナルティは受けなかったし、本当に軽く接触しただけだった。それ以外に言いようがないよ」

 

──振り返ってみると、これまでドライブした中でR26は最高のF1マシンだったのではありませんか?


「そのとおり。まさしくベストマシンだった。もう1台挙げるなら、2004年にシェイクダウンしたフェラーリも素晴らしかった」

 

アロンソを含めドリームチーム

 

──アロンソとの関係はどうでしたか?我々が知る限り、これまで在籍したすべてのチームで彼はうまく立ち回り、チーム全体が自分のために働くように仕向けていたそうですが、あなたとの関係はフェアでした?

 

「フェルナンドとは良好な関係を築いていたよ。協力して物事を進め、一緒に素晴らしいシーズンを過ごせたし、今でも親しくしている。折に触れ、『ジャンカルロは最高のチームメイトだった』とフェルナンドは語っている。私だって彼のことをそう思っている。フェルナンドは最強のドライバーなんだ。いまだに速さを失っていないし、経験豊富だ。長きにわたって、彼は世界最高のドライバーのひとりに数えられるだろう」

 

──パット・シモンズ、ジェームス・アリソン、ボブ・ベル、ロブ・マーシャル、ニック・チェスターなど、当時のルノーのスタッフはその多くが後に他チームに移籍して、数々の成功を収めています。そう考えるとドリームチームでした。

 

「まさにそのとおりだと思う。シモンズはじめ、アラン・パルメイン、さらにあなたが挙げた人たちが集まって、本当に最高レベルのパッケージが作られていたんだ。2000年から2010年にかけての、F1界で最高の人材が集まった。だから、世界最高のチームのひとつに挙げてもいいと思う」

 

 

──パルメインは担当エンジニアでしたが、うまくやれていましたか?

 

「もちろんだ。アランとは1998年から2001年まで共に戦い、当時から私の担当エンジニアだった。私が2005年にチームに戻った時、アランはまだチームに在籍しており、再びエンジニアを務めてくれた。彼とはとてもよい時間を過ごせたよ。一緒に仕事をしたなかでは、最高のエンジニアだった。少し前までアランはディレクターとして現場で働いていた。30年もの間、活躍し続けたのにもう現場では会えないなんて残念に思う。でも、それが人生だね」(注:アラン・パルメインは1989年にベネトンに加入後、ルノー~ロータスF1~ルノー~アルピーヌと、一貫してエンストン本拠のチームに所属。近年はアルピーヌでスポーティングディレクターを務めていたが、2023年第12戦ベルギーGPを最後に同チームを離れた)

 

──フラビオ・ブリアトーレとは特別な関わりがありましたね。

 

「フラビオは優秀なボスであり、真のビジネスマンだ。経験豊富で、チームを見事にまとめ上げた。つまり、優れたチーム代表だった。だがチャンスは1度しか与えてくれないので、1度ミスをしたらもう終わりだ。だから1998年と1999年に一緒に仕事をし、2005年に呼び戻してくれたのは、私にとって非常に大きな意味があった。とてもうれしかったし、光栄だった」

 

──翌2007年は何がうまくいかなかったのでしょう。アロンソが去り、明らかに別のチームになっていました。

 

「2007年のマシンは正しい方向に進化させられず、非常に扱いにくくなってしまったんだ。それにシーズン中の開発も十分ではなかった。何度かポイントは獲得したし、予選でトップ10入りもした。だが、これまでとまったく異なるシーズンになった」

 

 

──F1チームの力が周期的に変わる典型的な例ですね。シューマッハーを擁して2度チャンピオンシップを制した後の数年間は低迷し、アロンソとともに2度のタイトル獲得を再び達成しました。ただ、その後、タイトルから遠ざかってしまいました。

 

「どこにでも起こりうる話だ。これまでマクラーレンの時代、ウイリアムズの時代、フェラーリの時代、そしてルノーの時代があった。良くなったり、悪くなったりの繰り返しだろう。そう簡単にはいかないよ。F1は誰もがレースでの勝利、チャンピオンシップ獲得を目指して戦っているんだから、戦いのレベルは非常に高い。近年はレッドブルが他を圧倒していることからも、そのことがよく分かるだろう」

 

──あの頃を振り返ると、何もかもが順調で、フェルナンド・アロンソがチームメイトで、ポールポジションを獲得でき、レースで勝てる力を持ったマシンを与えられ……あなたのキャリアのなかでも最高の時期だったのではありませんか?

 

「優れたマシンを与えられ、素晴らしいチームのためにドライブでき、ポールポジションや優勝を狙えるチャンスもあって、確かに私がF1ドライバーとして過ごした中で最高の時間だったと思う」

 

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『GP Car Story Vol.46 ルノーR26』では、今回お届けしたフィジケラのインタビュー以外にも読みどころ満載。当時のルノー・チームには優秀なエンジニアが多く所属しており、今回はそのなかでもキーパーソン的存在のパット・シモンズ、ボブ・ベル、そしてジェームス・アリソンにインタビュー。マスダンパーの開発、そして禁止にまつわるエピソードも多数掲載。

 

 さらにエンジンの新規定でV10からV8に替わったこの年、ルノー・エンジンの開発、そして現場運営でどのような影響があったのかドゥニ・シュブリエに話を聞き、その彼の推薦で現場でフィジケラのエンジンを担当していたファブリス・ロムというエンジンエンジニアも登場。

 

 R26を語るうえで主役であるアロンソのインタビューはもちろん、彼の担当エンジニアだったロッド・ネルソンも、当時のアロンソの戦い方を振り返ってくれています。

 

 F1はドライバーの戦いであると同時に技術競争の場でもあるため、ライバルをリードする技術を手にしたチームは必ずといっていいほど槍玉にあげられ、そして、その技術の多くは葬られる定めにあります。それもF1のあるべき姿……R26の物語のなかにも理不尽なエピソードが多く存在します。そこにも存在する人間ドラマを感じてもらえたらと思います。