死刑制度に思う(2) ー冤罪にたいする考え方ー | (ネトウヨ認定された)hokkのブログ

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危機に瀕する日本
全ては戦中・戦後の欧米、中韓による日本人極悪説のプロパガンダと自己反省する日本人性格による、自信喪失と物言わぬ日本人気質が招いた危機です。
理不尽な中国、南北朝鮮の批判には徹底した反論をしていくことは日本人として最低限の務めです。

死刑制度について前記事を上げました

冤罪について、冤罪の人々に対して配慮が足り無いと言うご意見ありましたので、考えを書きます。


>hokk(ほっき)様、もう少し、冤罪の人々に対しての配慮がなされた書き方を心がけてもらいたいですね。


冤罪に関しては、最大限の注意を払って防ぐ努力が必要であり異論はありません。


ただし、そのことと罪に対する刑罰の重さの価値は別物であり、分けて考えるべきです


被害者側に全く落ち度が無く命を奪われたら、奪った人は己の命を持って最低限の償いを行うべきと言うこれまで日本人が考えてきた基本的考えを揺るがすものであってはならないと思います。


社会を継続して行く上で、人間の判断が入るケースは多々あります。
しかし人間が判断すると言うことは、100%正しい判断にならないと言うことでもあります。


しかし、100%に近づける努力をするべきにしても、それは政治的理由から、経済的理由から、国民感情から、その他諸々の問題とバランスを取った結果になります。


その結果、その時、防げなかった誤判断は後々改善対策に反映されるとしても、刑が執行されたら、結果的に許容されたことになります。


「その時、やれるべきこと」をやったと判断したら、その結果、誤判断があったとしても受け入れると言うことです。


あえて誤解を受ける書き方しますが、その視点で死刑制度を表現すると

「人間が判断する限り冤罪はゼロには出来ない可能性がある。しかしそれを受け入れてでも死刑制度は続けるべきもので続けて来た」と言うことです。


その運不運にあたる可能性は私にも他の方にもあります。

しかし、完全な冤罪防止策を作れない以上、その可能性は存在します。

それをどう考えるかです。


例を2つ挙げます


◆飛行機事故について


利用者側にとっては空中で事故が起きて墜落したらほぼ命は助かりません。そんなこと誰でも分かっています。でもそのリスクに対する対策は考えられる対策を全て取ってるでしょうか?


取っていません。エンジン4つとも動かなくなったらどうするか?
不時着以外ありません。でも、子供でも考え付く対策、大きなパラシュートを何セットか飛行機に着けておいて、エンジンが全て動かなくなったり翼が折れてしまったら、パラシュートを開いて落下傘の様に降下させれば乗員の命は助かる可能性が現在より極めて高くなります。


しかし、それを航空会社はやりますか?
やりませんね。エンジンが全て故障する、翼が折れる可能性はゼロでは無いと分かっていてもその対策はしません。


何故ですか?

それは、そうなる可能性が極めて低いことと、経済的理由などからです。
つまり、人命がかかる問題であっても「可能性が低いリスクに対し経済的に見合わない対策は取らない」ことであり、結果


「可能性が低いリスクで起きる事故は人命を奪われても容認する」と言うことです。簡単に言えば、命を落とす覚悟で飛行機に乗ってくださいと言ってるのと同じです。


◆刑の確定


今の検察、弁護にかける人員を現在の100倍の多さにしたらどうでしょう。
冤罪はかなり減ると思います。

しかしそれをやりません。何故ですか?

そこには上記と同じ理由で、現在の人員でも冤罪が起こる確率はかなり低いと判断して、ゼロではない冤罪率は許容していることになります。


そして経済的側面からもバランスが取れなくなるからです。
これが変わるには、あまりに冤罪が多くなった時に、バランスを変えてまで、その弊害をなくす変化が起きるでしょう。


以上、人の命に係わる経済活動や社会的制度であっても、政治、経済、国民感情、その他、諸々のバランスから、誤判断、不慮の事故などの防止対策が決定されると言うことです。


ご指摘の冤罪の可能性とそれに対する対応策は、死刑制度に限らず、人間社会で人間が判断すべき制度や仕組みにはすべてついて回る問題です。そのどの制度や仕組みを見ても完璧に対策が取られるものはありません。すべてが、諸々の要因とのバランスの上で決定されています。



冤罪については、「ゼロにする努力はするが、その発生率と、それを防ぐ対策が諸々の要因とのバランスから成り立っている限り、ゼロにはならない。しかしその弊害を受け入れてでも、死罪に値する犯罪があり、それを執行すると言う価値観は変えない」と言うのが先人の考え方であり現在の日本人の考え方でもあると受け止めています。