倉田百三の出家とその弟子を再読した。2019年に広島県庄原市にある倉田百三文学館を訪問したのがきっかけである。出家とその弟子は哲学性がたかく、慈愛にみちた傑作だったと記憶していた。それで文学館をたずねたのである。

 

出家とその弟子は、浄土真宗の宗祖である親鸞とその弟子や息子たちとの物語である。生きてゆくことの辛さ、悲しみ、ただ念ずれば救われるという浄土真宗の教え、青年の恋、親鸞の死、などが語られる。

 

作品に通底しているのは祈れば救われるという信念と慈愛、そして人間と人生の肯定である。

 

ーー人生の寂しさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。多くの弱い人は淋しいときに酒と女に行く。そして益々淋しくされる。--強い人はその淋しさを抱きしめて生きて行かねばならぬ。その淋しさが人間の運命ならば、その淋しさを受取らねばならぬ。その淋しさを内容として生活を立てねばならぬ。ーー

 

ーーこの満開の桜の花が、夜わの嵐に散らないことを誰が保障することができよう? また仏さまのみゆるしなくば、一ひらの花びらも地に落ちることはないのだ。三界の中に、かつ起こり、かつ亡びる一切の出来事はみな仏さまの知ろしめし給うのだ。恋でもその通りじゃ。多くの男女の恋のうちで、ただゆるされた恋のみが成就するのじゃ。その他の人々はみな失恋の苦きさかずきをのむのじゃ。ーー

 

このようなことを書くと、青臭くて、通常では読めたものにはならない。それがこの作品では、きわめて自然に成立している。それは戯曲という形式をとっていることが成功の要素になっているのだろう。ふつうの小説のように会話と地の文で説明をしていたら、この内容では成功しなかったのではなかろうか。

 

本作は宗教小説、宗教分野の戯曲であり、人間の死について奇跡的に崇高にえがききっている。それが26才だった青年の書いたものなのだからおどろく。著者は当時結核に蝕まれ、死をみつめて生活していた。だからこれだけ深くて老成した作品を書くことができたのだと思う。

 

 

倉田百三文学館は庄原市の田園文化センターという建物の1階にある。

 

 

図書館などのはいっている建物だ。

 

 

文学館にはフランスのノーベル賞作家のロマン・ロランから百三にあてた手紙も展示されてる。ロランはジャン・クリストフや魅せられたる魂、ベートーベン研究などで知られる。そのロランが百三の出家とその弟子を読んで感銘をうけ、手紙を書いたと言う。それだけの傑作である。