夏に実家に寄ったときのこと。
もう捨てたと思っていたスカートを見つけました。それは高校時代に買ったもの。当時おしゃれをしたくてしたくてたまらなかったのだけれど、小遣いは月 5000円でアルバイトもしていなかった私。友達と放課後ロッテリアにいってチキンテリヤキバーガーを2個食べるのも、カラオケにいくのも、小遣いで。 そんな財布事情でなかなか洋服など買えなかった時代に手に入れた、数少ない自分がイケテルとおもってた洋服。

これが着心地が良く、デザインもいまでも着られそうだったので持って帰ってきました。多少ほつれてたりするんですが形が好きで、これから型紙おこして作れないかなぁなどと思うと、もう少し捨てずに置いておこうかな、って。

そうして時々着たりしていたら、不思議とこの服を来ていた頃しょっちゅう遊んでいた地元の他校の友達数人から、SNSサイトで15年ぶりくらいにコンタクトがあってまたつながることが出来ました。ものにはバイブレーションが宿るなどといいますが、偶然とはいえ、こういうふうにどこかつながってるのかな、と考えるとロマンティック。

となると別れた恋人とデートしていた服などは、早めに処分したほうがいいかもしれませんな♪
来年度の手帳を買いました!

ここ7、8年というもの30分刻みのバーチカルタイプしか使えない!と愛用してました。レッスンやブライダルの挙式を30分刻みで記入するのに便利な上、どこにどのくらい空き時間があるかひと目でわかる。この空き時間に製本しよう、とか。

ちっとピンぼけしてますが↓今年の
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ところが去年読んだ本に書いてあったんです。

『私はあえて、一日に3件以上予定を書き込めない、一ヶ月見開きのものを使っています。一日の枠が広いスケジュール帳をつかうと、たった2~3時間開いた場所にも予定を詰め込める気になってしまう、つい用事を入れてしまうことに気づいたからです。』

巷には手帳術があれこれあふれ、専用の書籍まで刊行され、いかにうまく時間管理するかが取りざたされているけれど、なるほど、そういう逆の発想もあるんだ!とおもいました。たしかに、詰め込み過ぎると、自分を省みる余裕さえなくなってしまいますよね、というか、私もちょっとその傾向はありました。

このところ、わたしは自分自身の生活スタイル、仕事のやり方、方向性といったことを、見直す時期が来ていると感じていて、それは夏の終りにさらにはっきりと自覚したのです。20代後半から30過ぎまでは、とにかくやれることは全部やろうと決めていました。自分のためになるかどうかわからなくても、自分からは踏み入れることのない事柄を知るきっかけにもなるし、とにかく量をこなすという経験でもあり、おちてるたこ焼きのような仕事も拾って食べる勢いで、なんでもやりました。出来る限りやる、と決めていれば楽なもので、一日4件でも5件でも一緒や~とつめこみました。

でも、そろそろシフトしてもいいかな、というか、しなくてはならない時に来ちゃったのです。だから、今度の手帳はいままでとちがって、もっと小さく、ざっくりした書き込みしかできないものにしました!
その名もざっくりバーチカル。だそうです。

じゃーん↓またピンぼけ
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見えますか?いちにちを朝、昼、晩にわけた一週間見開きです。もうそんなにたくさんは詰め込めませんよ、ふふふ。。。

余白のあるくらし=豊かなくらし。


最初『涙が込み上げて』とか『胸をえぐられるような』とか、言葉で感想を確認しながら見ようとしていたのですが、3分もしないうちにあまりにも無意味で不自由すぎてやめてしまいました(笑)

アフタートークでうんさんご自身も『引き裂かれる』という言葉をおっしゃってましたが、ずっと感じていたのが、なんだかバラバラに分解されていく感覚。複数の言語が、身体が、音が、時間が、場所が、私たち一人ひとりの境目が、ある種の違和感や痛みを残しながらバラバラに因数分解されて、自由につながって新しい全くべつの言語や時間を作ったりする感じがして不思議でした。身体は炎に焼かれているのに笑顔でいるような連結が、バラバラの分解から感じられました。

そうしていくうちに、こんな血で書いたような人生も、なに不自由ない幸せもすべて分解して、じつはそこにあるのは無だけだった、というような感覚。。。

そんなふうにわたしは翻訳してました。身体が話す言葉。わたしも音で何を話せるだろうか、日々練習です(笑)

* * * * *

京都芸術センターで行われた、山田うんさんのソロダンス公演『DICTEE』を観に行ってきました。衣装は川口知美さんのデザインした青。京都に青が舞いました。上に載せたのはうんさんに送った感想文です。

DICTEEの著者、テレサ・ハッキョン・チャは釜山生まれ。日本の満州侵略に遭った母を持ち、韓国軍政を逃れてハワイのちサンフランシスコに移民、フランス留学、合衆国帰化、NYに転居のち、暴漢によって殺された女性アーティストだそうです。植民地以後、母国語を奪われた女性が、複数の言語と図像を往還し、自らの生と現代世界史を一冊に凝縮した究極の実験的テキストがDICTEEです。

テレサによって書かれたテキスト(韓国語、フランス語、英語で書かれている)が、別の国に渡って翻訳され、日本語に翻訳され、こんどは山田うんさんによって身体の言葉に翻訳される。その身体の言葉から、観客のわたしたちがまた自分の言語に翻訳する。

言葉って便利なようで不自由でもあります。言葉でとらえたり表現しようとすると、その言葉の限界がそのまま捉え方や表現の限界になってしまいます。身体に沸き起こったエネルギー、感じた景色、こころの動きはそのままそのものが言語であって、わざわざ日本語なり英語なりにしてしまったとたん、その言葉の域を出ないものになってしまいます。『地球は青い』というと、それだけになってしまうのです。

さまざまなプロセスを超えて、言葉があらゆる要素に分解されたり組み直されたりすることに、なにかを感じずにはいられませんでした。


面白かったのは、日本のとある唱歌が流れる中、壮絶な身体表現をするシーンがあるのですが、そのシーンを自宅スタジオで練習してると、かならず飼い猫2匹がダダダダとうんさんを助けに飛んで来るんだそうです。心配そうに、うんさんの口の中に頭を突っ込んだり、ぽんぽん叩いたりして『だいじょうぶ??』 と。しまいにはその唱歌がかかっただけで飛んでくるようになったとか。

いっしょに見ていた香川のあっこちゃんと、かえりにその話をしていて、『私たちも一瞬、これじつは演技じゃなくて、ほんとに苦しんでたらどうしようってよぎったよね』って。それくらい凄かったです。

それにしても馴染みの顔満載で、なんだか全国どこで、どこの誰にあっても違和感もレア感もなくなってきました。ボーダーレスですねぇ。