大越健介氏   | nogaのブログ

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>日刊スポーツ   >小泉進次郎氏、大越健介キャスター「派閥?」質問への回答が話題 都知事選の立候補者も私見   >日刊スポーツ新聞社によるストーリー・   >7時間・   

>自民党総裁選(27日投開票)に出馬した小泉進次郎元環境相(4312日放送のテレビ朝日系「報道ステーション」に生出演し、キャスターの大越健介氏から問われた“派閥の力学”に対しての受け答えがSNS上で話題となった。   

>大越氏は、無派閥で活動している進次郎氏に対して「菅(義偉元首相)さんという実力者が支援をしていると言われている。   

>菅さんを慕う人たちが、ある意味、派閥のような形になっているということはないですか」と指摘。   

 

派閥と序列メンタリティは同根ですからね。日本語を話す人間から序列メンタリティを除外することは難しい。      

 

>これに対し小泉氏は「菅さんであろうと誰であろうと、選挙になったら応援してくれたら一番ありがたいです。   

>誰でも応援してほしいです」と発言した。   

 

そうですね。派閥に拘ることなく応援が必要ですね。   

 

>大越氏は「なるほど」と一瞬、間をあけ「わかりました。   

>簡潔ですね」と笑いながら、次の話題へと移った。   

 

大越氏には彼独自の見解があるのですかね。   

 

>これに対し7月の東京都知事選で「ジョーカー議員」の通称で立候補した河合ゆうすけ氏は「小泉進次郎氏、派閥政治をつい肯定してしまう」と私見をXに投稿。   

>他にも「議論を避けた」「議論になってない」などの指摘もみられた。   

 

派閥と序列メンタリティを峻別することはできませんね。個人が印半纏を着るか着ないかの違いでしょう。      

 

>一方で、「うまく返したと思いますよ。   

 

そうですね。    

 

>『そうです』と答えらたら『派閥政治が残っている』と言われ『違う』と答えても『それを派閥と言うのでは?』と言われて、派閥政治から脱却していないようなイメージをつけられる。   

>話が止まった時点で小泉進次郎の思い通り。   

>なかなかの曲者ですな」などのコメントもあった。

 

小泉氏は愚者の愚問に答える必要はありませんね。   

日本人は思考を停止している。それで、自分自身の意見を持たない。マスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら情報を流しても、それが社会の木鐸 (世人を教え導く人) の役割を果すことはない。

‘それがどうした、それでどうした’ の問いに答えが出せない。我々日本人は自分自身の見解を述べる訓練をしてこなかった。だから日本人は個人として価値が低い。      

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>番組には、総裁選に出馬している高市早苗経済安保相(63)、小林鷹之前経済安保相(49)、林芳正官房長官(63)、上川陽子外相(71)、加藤勝信元官房長官(68)、河野太郎デジタル相(61)、石破茂元幹事長(67)、茂木敏充幹事長(68)も出演した。

 

日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、(角界のように) 勝負の成績が用いられるが、近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから、わが国では難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 序列順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは大切な個性の抹殺に手を貸しているのである。  

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら日本人は ‘序列なきところに礼儀なし’ になる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位の通用する所に限られている。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は家族制度・天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。   

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしていなくてはならない。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。国民は思考を停止しているからである。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。   

 

政治には未来社会の先取りが必要である。しかし日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語には存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、会社では定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。議員は十把ひとからげの扱いになっている。義理が廃ればこの世は闇だ。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の機会を得ることは難しい。