阿部幸大氏   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>現代ビジネス   >「文系不要論」に対する「意外で明快な答え」じつは「人文学の研究」が「世界から減らしているもの」   >阿部幸大の意見・   >16時間・   

>「文学部のやっていることは読書感想文とかわらない」「『文系』なんてお金をかけて学ぶ必要はない」——こうした根強い「文系不要論」に、どうすれば答えることができるのでしょうか。   

>人文系の論文・レポートを書くための技術を網羅的に提供する『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(阿部幸大著)では、「そもそも人文学の研究には意味があるのか?」ということも問われています。   

>世界的に評価される数々の論文を書いた気鋭の研究者は、この問いにどう答えるのでしょうか。   

>※本記事は阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』から抜粋・編集したものです   

>アメリカの「文学研究」事情   

>人文学の目的とは、いったいどんなものでありうるのか。   

>それは、なににたいして誠実であるべきなのだろうか。   

>わたしのコミットするフィールドのひとつであるアメリカ文学研究のトップジャーナル、American Literature誌の掲載論文には、ひとつの著しい特徴があった。   

>圧倒的に人種についての論文が多いのである。   

>そうではない論文も、ほとんどが民族、ジェンダー、セクシュアリティ、コロニアリズムといったトピックで占められている。   

 

これらの事柄は人間にとって大切な事柄ですからね。人間同士の殺し合いの原因になります。  

 

>これは、わたしがコミットする他分野のトップジャーナルでも、おおむね同様の観察結果が得られた。

>この問題は、自分も人種について書けば即解決するわけではない。   

>なぜそうなのかを理解する必要がある。   

>人文学の究極目的とは何か   

>なぜなのだろう。     

>もういちど、いま挙げたトピックをよく見てみよう。   

>人種、民族、ジェンダー、セクシュアリティ、ポストコロニアリズム──こうしたトピックに通底する要素はなにか。   

>それは、この世の中にある不平等や不正義を批判するという目的を共有している点である。   

 

そうですね。   

 

>なぜトップジャーナルはこうしたトピックばかりを選ぶのか。   

>それは、人文学というものの究極目的のひとつが社会変革だからだ。   

>それは、人種差別が、性差別が、階級差別が、植民地主義が、支配と抑圧が、つまり有形無形のありとあらゆる暴力が悪であると主張し、それを是正するための言説の構築に奉仕しているのである。   

 

そうですね。   

 

>人文学の究極目的のひとつは、暴力の否定である。   

>あるいは暴力を肯定するなんらかのロジックなりナラティヴなりを批判することである。   

>たとえば人文学の一領域である文学研究なら、その末端で遂行される作品を面白く鋭くアカデミックに読むという行為は、たとえば──あくまでたとえば──こうした究極目的のひとつに奉仕するのでなくてはならない。   

>これが、わたしが院生時代の終盤に到達した結論だった。   

>この認識をもってトップジャーナル群をあらためて眺めてみると、それらがいかに世界をより良くするという究極目的を共有しているか、それがよくわかる。   

 

そうですね。   

 

>ちなみにAmerican Literatureの掲載論文のうち最頻出のトピックが人種であるのは、人種的暴力がアメリカにおける最大の暴力だからにほかならない。   

>「文系不要論」に答える   

>なぜ、人文学という学問が公的機関において保護・支援されていてよいのか。   

>文学部不要論や、「人文学ってなんの役に立つの?」といった問いにたいして、さまざまな回答を目にする。   

>わたしの回答はシンプルだ。   

>それは世界から暴力を減らしているのである。   

 

言論には説得力が必要ですね。   

 

>この結論にたいして、「おまえの論文はそんなことに成功していない」という批判は可能であるだろう。   

>しかし、世界から暴力を減らすことに尽力する言論活動が無価値だという批判は、「人を差別して殺してもよい」という主張と同じくらい、耳を傾ける必要がないようにわたしには思われる。   

>つまり、暴力を減らすための言論活動の価値が世界から消えることはない。   

 

そうですね。紛争解決の為に政治家が活躍していますね。  

 

>人文系の論文が役に立たないと言われるとき、それはどのように世の中の利益になっているのかが見えにくいということなのだろう。

 

聖人君子は皆文系出身ですね。   

 

>たとえば「生活が便利になる」とか、そういったものだ。   

>人文系の学者たちはこのとき、「役に立つ/立たない」という基準そのものを批判することが多い。   

 

人はパンのみにて生くるにあらず (人は物質的な満足感を得るためにだけ生きるものではないということ)   

 

>だがわたしは、人文学は真正面からこの問いに答えられるのだと思っている。   

>研究が世の中の利益になる方法は、すくなくともふたつある。   

>第一に、世の中を良くすること。   

>第二に、世の中を悪くなくすることである。   

>暴力批判は、この後者に奉仕している。   

>フェミニズムも、クィア理論も、ポストコロニアリズムも、人文系のあらゆる活動はそれを目指す点において通底している。

>世界のなかで研究するということ   

>もちろん、これは人文学の価値とはなにかという問いについて、わたしが個人的に到達したひとつの回答例にすぎない。   

>この答えも今後、変化してゆくのかもしれない。   

>これは、たとえ自分が個々の論文執筆においてコミットしているトピックがどんなに小さなものであっても、それは世界と接続されているのだと信じるためのひとつの例である。   

>あなたが取り組んでいる研究の究極目的はなんなのか。   

>なぜあなたは種々のサポートを受けながら、いまその研究に従事していてよいのか。   

>あなたも同じ問いに向き合って、じぶん自身の回答を見つけだしてほしい。   

>その答えは、あなたの研究者人生を、生涯にわたって支えつづける精神的支柱となるだろう。   

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人文系の励みに社会的な効果を持たせるためには、文章に力を持たせる必要がありますね。   

神は死んだ。もはや我々は上からの指導を必要としない。我々は、自分自身の指導者でなくてはならない。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに言語能力の発達する頃を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。

日本語は現実の内容だけを表す言語である。哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実ばかりの言葉 (日本語) を話す人が非現実の内容を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っていては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。それで日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国の有権者はあらかた高等教育の真価を体得していない。だから高等教育の無償化は国民の総意が得られない。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗し続けているので、何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制の下にある。個人の哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。彼等の出世は高等教育の賜物である。

当の日本人の若者はいまもなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。これは日本語文法に階称 (hierarchy) がある為である。’上と見るか・下と見るか’ の判断に囚われざるを得ない。 難関出身者が序列社会でどれほど優位に立つているかの話ばかりで持切りである。それで入試地獄が存在する。世界に関する注意力の不足で日本人は井の中の蛙になっている。国際社会で印欧語族の知識人を相手にして苦戦を強いられることになる。   

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。 、、、、、 日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)    

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。