政権運営に不信感   | nogaのブログ

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>Zakzak   >岸田首相に〝退場勧告〟櫻井よしこ氏 「本質を読みとれず大局観も欠く」安倍元首相の暗殺から2年間、政権運営に不信感  1日・   

>「産経新聞」への寄稿で   

>保守派論客の重鎮、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が岸田文雄首相に〝退場勧告〟を突き付けた。   

>1日付産経新聞への寄稿で、安倍晋三元首相が暗殺されてから2年間の岸田首相の政権運営に不信感を示し、憲法改正と安定的な皇位継承の法整備ができなかった場合、«自民党は岸田氏に代わる志ある総裁を選出し、徹底的に国の在り方を議論し、再出発する。   

>それが国益だ»と論陣を張った。   

>櫻井氏は産経新聞の寄稿「美しき勁(つよ)き国へ」で、岸田首相就任直後の2021年10月の衆院選の圧勝や、22年7月の参院選での自民党の単独過半数獲得などについて、«国民は岸田氏が安倍晋三元首相の遺志を継ぐ決意を固めた、国防の本質を理解していると受け止めた。

>だからこその圧倒的支持だった»と分析した。   

>だが、安倍元首相が暗殺され、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題が浮上すると、首相は«事の本質から外れて旧統一教会と自民党の関係清算に力を注いだ»とした。   

>定額減税も、«国民が感じ取ったうさん臭さの本質を理解できなかった»とし、政治資金問題も«またもや本質を踏み外し、自ら泥沼の議論に埋没した»と指摘した。   

>櫻井氏は«本質を読みとれない岸田文雄首相は大局観も欠いている»とも批判する。   

 

そうですね。政治には未来世界の先取りが大切ですね。政治家には政治哲学が必要ですね。そうでなければ、政治家は政治屋になってしまう。政治屋は現実の世界を懸命に泳いでいる。         

 

>9月までの自民党総裁の任期中に憲法改正の実現を目指すと語ってきた岸田首相に、櫻井氏はエールを送ってきた。   

>5月3日の憲法記念日に開かれた改憲派の集会に首相がビデオメッセージを寄せた際、主催団体代表の櫻井氏は「憲法改正の第一歩を踏み出す。   

>このミッションをやり遂げることができるのは岸田首相しかいない」と語っていた。   

>だが、憲法改正原案の提出は見送られ、通常国会は閉会した。   

>櫻井氏は中国、北朝鮮、ロシアなどの権威主義国の脅威を取り上げ、«憲法改正は、岸田氏が好んで口にする「先送りできない課題」の筆頭だ。   

 

ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。

これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。

「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領

‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’  (マシュー・ポッティンジャー) 

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相     

我が国は平和国家である。だから我が国は敵国には戦わずして勝つ必要がある。それに見合った抑止力を持つことが急務である。

'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)   

 

>万が一、それを先送りするなら岸田氏には退場しかないだろう»と迫り、«志ある政治家は手を挙げよ»とつづっている。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任も無い。わが国においては責任者を探すことは難しい。      

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)