官僚志望   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>日テレNEWS NNN   >「官僚志望」激減で人材確保が危機的状況!“ブラック職場”どう改革?   >日テレNEWS NNNによるストーリー・   >8時間   

>国家公務員の人材確保が危機的な状況に陥っている。   

>行政の能力低下を防ぐための抜本改革は?   

>人事院に提出された報告書のポイントを解説する。   

><経済部 解説委員・宮島香澄>   

>■国家公務員志望が3割減…国を支える役割は   

>――ここからは日本テレビ経済部の宮島解説委員に聞きます。   

>国家公務員について、何が問題となっているんですか?   

>国家公務員、特にキャリア官僚は、20年、30年前は、主な国立大学の中で最も優秀な学生が志望する仕事のひとつでした。   

>これが今、不人気になっています。   

>全体でも国家公務員の採用試験に申し込む学生が10年前から3割減りました。   

>就職して10年たたない総合職の退職も増えています。   

>このままでは国民生活を支える国家公務員の役割が十分果たせなくなるのではという強い危機感があります。   

>――国家公務員になろうとする人が減ったのは、どうしてですか?   

>■国会対応などで“ブラック職場” 若者の変化への対応は   

>特にキャリア官僚は、国会対応などでの長時間労働やハラスメント、いわゆる「ブラック職場」と言われる働き方だと、学生の中でそう見られる状況になっています。   

>また、不祥事などもあり、国民の不信感が高まりました。   

>大事な、国民生活を支える仕事ですが、以前よりやりがいが低下していると言われます。   

>なにより大きいのは若者の変化に沿えてないことです。   

>若者の人数が減る中で優秀な人材を採用しようとする民間企業は人材獲得にしのぎをけずっています。   

>残業を減らし、「キャリアを積みたい」という若い人の意識にも対応する努力をしています。   

>一方、官僚組織では、だんだん変わってきているものの、旧態依然の働く環境や評価の仕方で、今の時代に合っていないと学生にみられてしまっているんです。   

>それで、総合的に改革する必要があるということです。   

>■中間報告“職務に応じた報酬” 年功序列脱却を

>――官僚組織は、どうやって優秀な人材を確保しようとしているんでしょうか?   

9日、人事院に提出された中間報告では、まず国家公務員が目指すべきこと、行動規範をはっきりさせる。   

>それを踏まえて、人事評価を納得できる形でしてフィードバックする。   

>若い官僚に聞きますと、「評価と報酬や処遇がつながってない」「やりがい搾取」などという言葉もでてきています。   

>それで報告書は職務内容をはっきりさせて評価と処遇を結びつけ、自分がキャリアを積んでいる成長実感がもてるようにと求めています。   

>――官僚というと、以前から、「重要な仕事のわりに給料が少ない」と言われていますよね?   

>はい、さらに最近は、民間の似た人材を取り合うような企業がお給料を上げていて、官僚が学生時代の友人と話すと「大きな差」を感じるようです。   

>家族に転職を勧められることまであるということです。   

>報告書は職務に応じた報酬、年功序列からの脱却が必要だとしています。   

>■公務と民間の“リボルビング・ドア” 高い水準の行政へ   

>――変えたほうがいいところが、いろいろあるということですね。   

>今は公務員でなくても民間でも社会貢献できる仕事がいろいろありますし、終身雇用が崩れる中では、省庁と民間企業との人材の行き来も大事です。   

>公務員の働き方や報酬、採用方法があまりにも民間企業と違うと、求める人材が行政のほうをむいてくれないという状況もあります。   

>国民生活を支える国家公務員が高い水準の行政をしていくために、今回の報告をさらに具体化して、対症療法ではない総合的な対応策を打ち出す必要があります。   

 

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに言語能力を発達する頃を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。

日本語は現実の内容だけを表す言語である。哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実ばかりの言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っていては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。それで日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗し続けている。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

 

政治には時代の先取りが必要である。未来の世界の内容を説明するには未来時制の文を作ってその内容を示さなければならない。それが政治哲学となる。   

日本語の時制の無い構文では現実ばかりの内容になる。これでは日本人は現実肯定主義にならざるを得ない。待望の構造改革の夢はない。わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。      

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。個人の哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。これらは高等教育の賜物である。

当の日本人の若者はいまもなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会でどれほど優位に立つかの話ばかりで持切りである。世界に関する注意力の不足で日本人は井の中の蛙になっている。国際社会で印欧語族の知識人を相手にして苦戦を強いられることになる。   

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。 、、、、、 日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)    

 

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。