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NEWSポストセブン   >【逆説の日本史・特別編】井沢元彦が映画『オッペンハイマー』を考える 「原爆投下が多くの人間の命を救った」という主張は無視して良い「言い訳」か?      NEWSポストセブンによるストーリー・   >1日   

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>アメリカが主張する原爆投下を正当化する最大の論理は、「日本はあまりにも頑迷で他の国なら当然降伏するようなところまで追い詰められてもまだ戦おうとしていた。   

>戦争を終わらせるためには、原爆投下はやむを得なかった」というものだろう。   

>この論理には「原爆投下によって戦争は終わり、アメリカ兵のみならず多くの日本人の命も救った」という主張が続く。   

>問題は、この主張を「言い訳」だとか「正当化」だと、完全に無視していいものだろうか、ということだろう。

> それは、歴史の分析として妥当では無いと私は思う。   

>以下その理由を述べよう。   

> 原爆投下に至る一九四五年(昭和20)、事実上の日本領だったサイパン、テニアンなど南太平洋の島々がすべてアメリカ軍に奪取されたことによって、戦略爆撃機B-29による日本本土の定期的爆撃が可能になった。   

>アメリカ本土あるいはハワイ州からでは必要航続距離が長すぎて不可能だったのが、可能になったのだ。   

>そして同年三月十日の東京大空襲では、下町つまり民間人居住区に多数の焼夷弾が投下され、十万人以上の日本人が死んだ、いや殺された。   

>しかも、この死者数はあらかじめ計算されていた。   

> 古くは明暦の大火、近代に入ってからも関東大震災による大火によって膨大な犠牲者を出したのが東京(江戸)という都市であり、最近の研究ではあきらかにアメリカ軍はこのことを予測していたという。   

>単なる爆弾では無く焼夷弾を使用したのがその証拠だ。   

>つまり、これも「一秒」ならぬ「一夜のホロコースト」であり、まさに「人道に対する犯罪」であろう。   

> ここでアメリカ軍、いやアメリカ国家の視点に立ってみると、「もうそろそろ日本は降伏するだろう」と考えたに違いない。   

>首都のみならず大阪、名古屋など主要な都市は焼け野原になり、しかも「南洋諸島」の占領によってアメリカは日本をいくらでも空襲できる体制を確立した。   

>欧米社会の常識なら、これで戦争は終わるはずなのである。   

> しかし、日本はそのような事態になっても降伏など夢にも考えていなかった。   

>なぜそうだったのか?    

>この『逆説の日本史』の愛読者はよくご存じだろう。   

>日本民族は「犠牲者の死を決して無駄にしてはならない」という古くからの怨霊信仰に基づく英霊信仰の国で、いまでこそ先の大戦で三百万人が犠牲になったから「その死を無駄にしてはならないから平和憲法を守らねばならない」と声高に叫んでいるが、戦前はまったく同じ信仰に基づく「日露戦争で戦死した十万の英霊の死を無駄にしてはならない」という信仰が国民を縛りつけ、一切異論を許さなかった。   

> 朝日新聞も毎日新聞も、いや日本のすべての新聞がその信仰を支持し、結果において戦争を煽りに煽った。   

>「過ぎし日露の戦ひに 勇士の骨をうづめたる忠霊塔を仰ぎ見よ」で始まる朝日新聞の公募によって作られた『満洲行進曲』は、「東洋平和のためならば 我等がいのち捨つるとも なにか惜しまん 日本の 生命線はここにあり 九千万のはらからとともに守らん満洲を」(作詞の大江素天は、当時朝日新聞の現役記者)と歌い上げ、「英米の圧力に負けて満洲を放棄することは、十万の英霊の死を無駄にすることになる」という、陸軍も望んだ「国民精神」を確固たるものにしてしまった。   

> 洋風のドレスを着てアメリカのジャズを歌い続けた歌手淡谷のり子が「非国民」にされてしまうという状況下で、「もうダメだ。   

>降伏しよう」などと言い出せば、誇張では無く殺されてしまう。   

>だからこそ、沖縄でアメリカ軍を阻止しようという無謀な作戦「沖縄戦」も決行された。   

>〈おきなわ-せん〔おきなは-〕【沖縄戦】   

>第二次大戦末期、沖縄本島およびその周辺で行われた日米の激戦。   

>昭和20年(19454月の米軍上陸から約3か月にわたる軍民混在の激しい地上戦のなか、集団自決強制、日本軍による住民虐殺なども起こり、県民約10万人が犠牲となった。〉    

>(『デジタル大辞泉』小学館)   

> この作戦でもっとも重大なことは、民間人が戦わされたということである。   

>だからこそ本来戦争で戦う必要の無い普通の県民が十万人も犠牲になったのである。   

>国際法の常識から言えば、戦争は軍人の仕事で民間人は非戦闘員だから死ななくてもいいはずなのである。   

>しかし、実際には女学生まで看護要員に動員され多くが犠牲となった。   

>「ひめゆり学徒隊」の悲劇である。   

> この沖縄戦は民間人を無理やり戦争に動員したもので、国際法違反というか国際常識に反することは間違い無い。   

>だからこそ戦争末期に戦場で父を失った政治家古賀誠自民党元幹事長は、かつて中日新聞のインタビューに対して次のように述べた。   

>〈「先の四年間の戦争で三百万人が犠牲になったが、大半が最後の一年間で亡くなった。   

>(中略)私の父もだ。   

>まさに政治の貧困。   

>あそこでやめていれば原爆も東京大空襲も沖縄戦もない」〉   

>(『中日新聞』2019812日付朝刊)   

> 古賀のこの言葉は、以前『逆説の日本史 25 明治風雲編』でも紹介したが、つまり人類の常識で考えれば「最後の一年間」はやるべきでは無かった、ということなのである。   

>その分析はまったく正しい。   

>ただし、申し訳無いが、その原因は「政治の貧困」というよりは「信仰」の問題だ。   

>もし政治の貧困が原因ならば、「オレは戦争なんかしたくない」という不満分子が必ず反乱を起こすはずである。   

>人間誰だって死ぬのは嫌だからだ。   

> しかし、実際には女学生に至るまで戦闘に参加し逃亡する人間などほとんどいなかった。   

>だからこそ陸軍は本土決戦を考えていた。   

>長野県の松代に大防空壕を掘って天皇を動座し、大本営を作る計画が進んでいた。   

>「三船敏郎版」でも「役所広司版」でもいいが、映画『日本のいちばん長い日』を観た方なら、原爆が広島そして長崎に立て続けに二発も落とされた段階でも、昭和天皇の玉音放送を阻止し戦争を続けようとしていた陸軍将校たちが少なからず存在したのをご存じだろう。   

> もちろん、あれは実話である。   

>注意すべきは、軍隊の総司令官である昭和天皇が「降伏する」と言っているにもかかわらず、彼らはその意向を無視しようとしたことである。   

>天皇絶対なら、それはあり得ないことではないか。   

 

そうですね。   

 

>そうでは無くて、「十万の英霊の死を無駄にしない」ことが現実の天皇の命令より優先するのである。   

 

無駄にしない方法があるのでしょうかね。     

 

>それが日本だ。

>「ジャップは人間では無い」   

> こうした日本の現状を、アメリカは正確に把握していた。   

>原爆投下以前の話に戻るが、このままでは必ず日本は本土決戦を実行するだろう、ということである。   

>もし昭和天皇の聖断が無く、日本が本土決戦に突入していたらどうなっていたか?    

>沖縄一県だけで民間人十万人が犠牲になったのである。   

>日本には他に都道府県が四十六もある、単純計算はできないまでも、アメリカ兵のみならずきわめて多くの日本の民間人が犠牲になったことは間違いあるまい。   

> 俗に「盗人にも三分の理」というが、アメリカ側の「原爆投下によって戦争は終わり、アメリカ兵のみならず(本土決戦が実行されていたら死んだはずの)多くの日本人の命をも救った」という主張は、一理も二理もあるものなのである。   

 

そうですね。

好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日。 

残念ながらわが国の原爆開発はアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕は避けることができた。めでたし めでたし。    

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。

人の命はどのように考えられていたのか。 ‘命 (ヌチ) どぅ宝’(何をおいても命こそが大切である。)ではなかったのか。  

‘封建国家で最も安価な資源は人命だが、我々にとっては、最もかけがえのないのは国民だ’(ウクライナ軍のワレリー・ザルジニー総司令官)   

 

> もちろん、念のため繰り返すが、どんな理屈も「一秒間のホロコースト」を正当化はしない。   

>それは非戦闘員の大虐殺だからだ。   

>しかし、戦争をやっていたのだからアメリカが広島、長崎という都市では無く、無人地区とか軍事施設である基地や軍港に原爆投下したのなら、日本は文句を言える立場には無いということだ。   

>「核兵器は廃絶すべきだ」という理想は「投じてみて初めてわかった現実」であって、当事者にはわからない。   

> ここで映画『オッペンハイマー』に戻ると、それは実在の人物である原爆開発者ロバート・オッペンハイマー博士の生涯をたどることにもなるのだが、まず彼が原爆を開発したのはやむを得ない事情と言えるだろう。   

>なぜなら、ナチス・ドイツが原爆製造に着手していたからである。   

>ドイツは当時最新鋭のロケット兵器V2号も所有していた。   

>開発競争に遅れをとれば、ナチスのほうが世界最初の核ミサイル保有国になったかもしれない。   

>それを阻止するのは当然だ、ということだろう。   

> ユダヤ系であるオッペンハイマーにとって、ホロコーストは同胞の大虐殺でもある。   

>しかし皮肉なことに、ドイツはオッペンハイマーも含むユダヤ人の優秀な学者を無視したことによって核開発に遅れをとり降服した。   

>ならば完成した原爆を封印するという考え方もあったのに、アメリカは先に述べたような論理で日本に対して使用した。   

>問題は、この使用に際して当時のアメリカでもまず無人地帯に投下して警告すればいいではないかという意見があったということだ。   

> しかしオッペンハイマーは使用に賛成し、後に広島・長崎の惨状を知った時点で水爆開発については阻止する側に回った。   

>その態度がアメリカからソビエトなど共産主義を利する裏切り者ということになり糾弾されるのだが、原爆開発者として私はもっと断固として都市に投下すべきでは無いと主張すべきだったと思う。   

>おそらく彼がそう主張しても都市への投下は阻止できなかっただろうが、それを試みなかったことは彼の人生の最大の汚点である。   

> そして、この映画自体の最大の欠点は、当時アメリカに間違い無くあった人種差別的感覚つまり「ジャップはイエローモンキーであって人間では無い」という感覚が描かれていないことだ。   

>当時、同じアメリカ人であるにもかかわらず日系人は収容所に入れられ、ドイツ系は免れた。   

>この差別感情は、結果的には白人国ドイツに落とさなかった原爆を、日本のしかも都市に投下することの背景にあったはずだが、そのことにこの映画はまったく触れていない。   

>オッペンハイマーの伝記が中心だとしても、原爆投下を扱うならこの問題を無視してはいけない。   

> しかし、このことは、いずれこの映画に対する「アンサーソング」として日本人が創るべきものなのかもしれない。   

 

そうですね。日本人にできたら大したものですね。差別問題の取り上げ方は日本人と米国の黒人とどちらが上手ですかね。      

 

>〈文中敬称略〉 

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>【プロフィール】   

>井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。   

1954年愛知県生まれ。   

>早稲田大学法学部卒。   

TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。   

>本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。   

>現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。   

>※週刊ポスト20245310日号