還流継続   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

> 岸田首相(自民党総裁)から派閥の政治資金規正法違反事件を巡って聴取を受けた安倍派元幹部4氏の姿勢に対し、自民党内で不満や批判が広がっている。   

>従来の発言とほとんど差のない説明を繰り返し、自らの弁明に終始したとされるためだ。   

>元幹部としての責任感が希薄だとして、重い処分もやむを得ないとの声も上がっている。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。   

 

> 「追加調査を行っている。   

>事実をできるだけ解明した上で、(元幹部らの)政治責任について判断したい」   

> 岸田首相は27日の参院予算委員会でこう述べた。   

>だが、同日夕までに終了した4氏の聴取では、新たな事実の確認は乏しかった。   

> 首相は26、27の両日、塩谷立、下村博文・両元文部科学相、西村康稔・前経済産業相、世耕弘成・前参院幹事長の聴取を個別に実施した。   

>4氏が、安倍元首相から不透明な資金還流の中止を指示されたにもかかわらず、結果的に還流継続を黙認したことを首相は問題視している。   

> 聴取の焦点は、安倍氏の死去後も還流が継続した経緯や、幹部間の責任問題だった。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。   

 

>4氏は今回の聴取でも、衆参両院の政治倫理審査会などで述べた内容を繰り返したといい、関係者は「政倫審以上の話は出なかった」と語る。   

> 4氏はいずれも還流継続の決定に関し、自身の積極的な関与を否定してきた。   

>とはいえ、当時はいずれも派内で指導的な立場にあっただけに、自民内では「事務方だけで決められるわけがない」として、4氏の説明に懐疑的な目が向けられている。   

> 今回の聴取でも弁明に終始したことで、自民執行部内からは、「自ら身を処す姿勢も見えず、そもそも悪いとも思っていない」とあきれる声が出ている。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。   

 

> 自民は、4月の第1週に関係議員らの処分を決める方針で、4氏が最も重くなる見通しだ。   

>「選挙における非公認」か「党員資格の停止」とする方向で検討している。   

>4氏のこれまでの姿勢を踏まえ、党執行部内にはより重い処分が必要だとみる向きもある。   

>なかでも、安倍派座長を務めていた塩谷氏と、参院安倍派会長だった世耕氏に関しては「離党勧告でもいい」との声が出ている。   

> 処分を巡っては、連立を組む公明党もいら立ちを募らせている。   

>幕引きが遅くなればなるほど、今後の国政選挙などへの影響が大きくなりかねないためだ。   

>公明幹部は、「処分を早期に済ませ、再発防止に向けた政治資金規正法改正の議論を進めることで、局面転換を図るべきだ」と指摘する。   

 

日本人には意思が無い。意思のない人達の中から、責任者を探し出すことは難しい。   

【英対する開戦の詔勅】

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。

 

一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。    

 

[責任] 意思の無い人間には責任がない。だが、これは西洋人の考え方である。日本人の考え方はこれとは違っている。意思の無い日本人にも責任という言葉はある。それは意思の話を度外視して目的達成の義務だけを意味するものである。これでは荷役を押し付けられた意思の無いアニマルと同じである。牛馬の苦役のみの強要では喜んで責任者になる者はいない。だから、わが国では西洋流の責任体制のある指導者は育たない。

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、以下のように述べています。

日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、一人のナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。戦後の復興も同じである。戦後の復興はだれが立案し指導したのか。ある罷免された大使が、ドゴール、毛沢東、ネールの名はだれでも知っているが、吉田茂などという名は特別な知日家を除けばだれも知らないと言っているが、これは事実である。(引用終り)   

 

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)